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文部省思想局から鳩山兄弟まで

うわあ、と思わず感嘆の声が上がりそう。

 常石先生の「日本現代誌」に、天皇機関説を唱えた美濃部達吉関連の文書が写真で載っていました。
 米国議会図書館の法律図書館で見つけたそうですが、この「各 大學 ニ 於ケル 憲法 學說 調查 ニ 関スル 文書」を1935年に作成したのは「文部省思想局」……なるほど、戦前の体制ではこうした部局があったのか! と、また妙なところで感心してしまいました。

 表紙をめくった写真もいっしょに載っていますが、「調査ノ性質上私文書」とあります。
 調査ノ性質上私文書……なんじゃこれ? という気持でちょっと検索してみると、

刑法などで公文書としているものは、公務員が作成した文書のことですが、ここで公的文書としているものは、公文書ではなく、一般の会社などで作成している文書のうち、複数の人から公式な文書と認められたものを示しています。
これに対し私的文書とは、個人的に使用する目的で作成されたものであり、メモや公的文書を作成する過程で作成した下書きなどを示しています。
会議録などを会議メモと表題を付けていても、これを複数の人に配布しているような場合は、公的文書とみなせます。
実験ノートなどは、考え方についていろいろとメモを書くものであり、私的文書のようですが、業務として研究を進めている場合は、特許権などの関係から知的財産の一部として公的文書としなければなりません。

 ……

公的文書はその組織の共有書類として、誰でもが利用できるように(もちろん機密文書の場合は必要なアクセス制限をした上で)保管する必要がありますが、こ の文書の共有化が進んでいない場合、公的文書を個人として保管することになります。このような状態の場合、私的文書と公的文書が混在することとなり、他の 人は利用することが事実上不可能となるため、公的文書であっても私文書化してしまいます。
公的
文書を共有の場所で保管しなければ、せっかくの財産を無駄にすることとなります。


 等々と、ファイリングの説明にありました。

 本来なら「文部省思想局」という明らかにお役所が作成した文書ですから公文書にすべきなのでしょうが、“諸般の都合で”私文書とした。私文書であれば作成者個人の責任で作成され、保管される。

 実際にはおそらく思想局内部で共有されていたのでしょうし、必要とあらば、いつでも他の役所、たとえば内務省の特高警察の求めに応じて開示したのだろうと推測します。
 それでも問題になったときの言い逃れとして“私文書”としたのかもしれません。実質は公文書なのに。

 文部省思想局は、こちらによると、1934(昭和9)年にできたもののようです。

昭和3年(1928年) 3.15共産党員大検挙(3.15事件)
            
  4.17文部省,学生・生徒の思想傾向の匡正,国民精神作興を訓令〔文訓5〕
             9.11閣議,思想善導施設費約15万6000円余を文部省の責任支出とすることを決定

昭和5年(1930年) 4.4田中文部大臣,各帝大総長を招き思想問題につき協議(~4.5)
昭和6年(1931年) 7.1文部省学生思想問題調査委員会を設置(昭7.5.2学生生徒左傾の原因及対策を答申)

昭和7年(1931年) 12.-学生団体皇道会を結成
              -.-本学における左翼学生運動,本年をもってほぼ終息

昭和9年(1934年) 
6.1文部省思想局を設置
    


 文科省のwebサイトでも、「文部省機構の改革」に記載があります。
 冒頭でいきなり、大正6年から昭和11年にかけては文部大臣の更迭が頻繁に行われ、その数が17名にのぼることにふれていますが、1917~1936年のことですから、大臣1人あたりの任期は平均で1年ちょっと。

 その17人の中で私が知っている名は、犬養毅、鳩山一郎のふたりぐらい。
 犬養毅が文相になったのは第2次山本権兵衛内閣ですから1923~24年のことで、まだ時代は大正。
 鳩山一郎は、犬養と斎藤実の両内閣で文相。1931~34年のこと。この間、京都帝大の思想弾圧事件、滝川事件が起こっています。

 京大総長に滝川の罷免を要求したのが、この鳩山文相ですが、拒まれて、文官分限令により滝川の休職処分を強行。
 このことが戦後のGHQの公職追放指令を受けたことに関係しているとか。

 ちなみに当時の鳩山家の暮らしぶりを彷彿とさせる、こんな記事「吾家の家計簿」はいかがでしょうか。
 賢夫人の誉れ高い薫の面目躍如、といったところですが、5人家族に使用人4人の典型的ブルジョア家族の生活がうかがい知れます。

 サイトの管理人さんが今日の経済に換算しておもしろい比較をされていますから、興味のある方はぜひご覧ください。

 で、一般中流庶民の家庭なにがし家が月収44万8千円に対して鳩山家は459万。
 これをすごいなあ、と思うか、なるほど、と思うか、いかがでしょうか。

 この鳩山薫が一郎の妻にして、数々の迷言を呆れるほどに繰り出す邦夫氏、超党派の国会議員らで作る「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根元首相)前原誠司羽田孜藤井裕久田名部匡省氏らと共に参加して顧問に就任した由起夫氏のおばあさんにあたります。

 う~ん、旧体制アンシャンレジーム志向の兄弟のルーツを見た! という気がします。

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有権者の参院の乱 「乱」には「おさまる」の意味が

ガンで入院中の知人の見舞いに夫とふたりで行ってきました。
 喉頭癌で手術をされたのが4、5年前だったでしょうか。
 今春、腰が痛い、と言われて入院したときには、すでにガンは全身に転移していました。
 その時私はお会いしていないので、病状も夫から聞くばかりでした。

 そして今回の入院。
 やせこけた土色の顔に内心驚きながらも、当たり障りのない会話が続きます。
 絞り出すような声に耳を傾けながら、病人の表情と部屋の様子をうかがいます。

「やっと重湯が食べられるようになったよ」

 なるほど、棚には柔らかく伸ばした梅干しの果肉の瓶詰め等が並んでいます。
 想像してはいましたが、実際に「塩酸モルヒネ」の点滴の用意があることに軽い衝撃を受けますし、血液が容器に入ってぶら下がり、管を流れる様子を見るのもかなり辛いものがありました。なにしろ、輸血を目の前に見るのは初めてでしたから。
 もちろん周りには高齢者が多かったので、救急車に何度も乗り、病院通いが日課だったこともありますが。

 病人は私たちより一回り年上で、国立大学の学長を2期まで務めた方。私の身近で数少ない、“歩く辞書”のお一人です。

 帰り際、以前聞いたお話を数日前に想い出していたので、切り出してみました。

「先生は、『男女7歳にして席を同じうせず』の『席』は『床』、つまり『寝床』のことだ、といわれましたよね」。

「そうだ。草かんむりがあろうとなかろうと『席(席)』と『蓆(むしろ)』は音が同じでね、時々入れ替わったりする」。

「『乱』だってそうだ。『みだれる』の意と同時に「おさめる」の意がある」。

「あっ、知ってます。『高場乱』の名は『おさむ』ですよね」。

 ここから幕末期の福岡藩の勤王の志士について、ひとしきり話しがはずみます。
  
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 ちなみに高場乱は幕末から明治にかけての儒学者で女性です(↑ 上図)。
 当時全国的に有名だった福岡県須恵町「田原眼科」の家の出で、現在の代々木ゼミナール近くの地に私塾を開き、多くの門弟を抱えました。これがいわゆる「ニンジン畑塾」。
(ニンジン畑だったところだったのでそう呼ばれたわけですが、この場合、もちろんニンジンは朝鮮ニンジンのことだったと記憶しています)。
 そこで荒くれものの福岡の青年たちを教え、最後の弟子で有名なのが、あの頭山満でした。

 こうして高場乱から話しは平野国臣、野村望東尼にまで及びます。

 先生の目にも力がこもってきました。

「獄から処刑に向かうとき、『行くぞおー』と平野国臣が同志に大きく声をかけていったという話は、切なかったですねえ」と、私。

 そんな話を交わすうち、高場乱の知識を得た本が先生と私とでは違っていたことが分かりました。

 結局、

「書名と出版社をメールで知らせて。本屋に注文するから」

 という話に。

 食が通らずすっかり痩せて1人で立つこともできなくなり、ベッドの上でリハビリをする病人が、新たに本を注文して読むという。
 うれしかったですねえ。

 ついでに、今回の有権者による「参院の乱」が、私たちの国が独立国として国際社会の中で歩むきっかけになるように、そしてこの国がうまく「おさまる」ように願いたいものです。
 

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ローマ帝国の衰亡を思い出す

人工樂園さんからのTBで、25日に行われたという下関市の戦時訓練を知りました。

 驚いて下関の友人に電話をしましたがちょっとつかまらず、この件はお預け。
 六連島は、潮の速い関門海峡で、水先案内を受けるまで停泊する小さな島だ、とは釣り好き人の話し。
 近いうちに下関に行ってみようと思っていますが、その時は、またご報告します。

 なにしろ今、手を離せないことを抱えて、どうにかこうにかブログの方は更新していますが、とてもじゃないが下関までは行ってられない、という状況です。

 さて話しは変わりまして、ローマ史を読んでいると、それも興隆期の歴史ではなく衰退期の歴史を読んでいると、日本の現状が連想されて、なんとも複雑な思いに駆られます。
 
 帝国が徐々に蝕まれて崩壊していく様が、書物にはいとも鮮やかに描かれていますが、さて、当時のローマ市民たち自身は何を想い、何を感じていたのだろうか、と思いをめぐらしながら読み進めていくのですが……。

 暗愚の皇帝、私利私欲と保身に走る貴族や宮廷官僚、 パンとサーカスにうつつを抜かす民衆、帝国内の結束に利用されて絶えず宗派間の教義争いを続けながらも最後には帝国で唯一の勝利者となる(キリスト教という)宗教など、いまの日本の世相と重なるところも多く、少々ペシミスティックな気分になってしまうところがイヤですね。

 西方世界における帝国崩壊の序章がすでに始まっている5世紀のローマ市で、一番の金持ちは教会でした。政治的な理由も含めて皇帝たちには数々の高価なものを寄進され、信徒たちからも献金を受け、さらには税も免れて、豊かな所領を持ち、教皇たちはずいぶんと豪奢な生活を送っていたようです。

 ですから教会は、いわゆる‘蛮族’たちの格好の餌食にもなるわけですが、不死鳥が甦るように、また財を貯えるわけです。
 国破れて、教会有り、というより、国破れて‘宗教有り” というところでしょうか。

 それに、帝国が衰退していくと、帝国内で“寛容性”がどんどん失われていきます。
 それがまた悪循環を呼び、さらに非寛容の精神が国を覆う。
 そこであたら失わなくてもいい人材を失ってしまったり……。

 なんだかこれも今の日本と重なります。

 非寛容と排除の論理が吹きすさぶ世の中の危険性を感じます。
 陰では得をして笑っている人もいるでしょうに。

 議員の劣化、人材の枯渇…… 厭な材料がたくさんありますが、それでも諦めてはいけない、と自分で自分に言いきかせなくては。

 手が空いてから、記事もゆっくり書きますね。

 
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 岸がつき、小泉がこねし改憲もち、座りしままに喰らうシンゾー


桃太郎は、どのようにして教科書に登場していったか

 自分が目立つことを最優先する政治家や、野党の追及が怖くて改革を進められない政治家は、内閣・首相官邸から去るべきだ」と、堪忍袋の緒が切れたらしい自民党 の中川幹事長がいったとか。
 あれあれ、たいして尊敬もできない人物をただ選挙のためにだけ担ぎ出したのは誰だったのでしょう。それで幹事長は愛党心を発揮し て、とにかく首相に忠誠を誓え、というわけですか。

 採寸は間違えるわ、生地も裁ち間違えて仕立てるわで、服が着られない。それでも服に体を合わせろ、といっているみたい。
 
 柳井前駐米大使、中西京大教授、伊豆見静岡県立大教授出席の18日のNHK日曜討論では、6カ国協議で日本が孤立していたということはあり得ない、北朝鮮に大規模経済支援ができる国は日本だけであり、日本が6カ国協議の成否を握っていると、終始政権擁護が繰り返されてました。

 いろいろなところで、いろいろな人たちが、総理をかばってくれるようです。

 堅い話が続いたので、今日は目先を変えて「桃太郎」のことでも。

 いつかLuxemburgさんが「世界一受けたくない授業」として武田鉄矢さんの桃太郎解釈をあげられていました。
 多面的な見方の例として武田さんは、「桃太郎は両親に育てられなかったために、人と違うといじめられて仲間はずれになり、グレてそのコンプレックスから自分は人と違う、だから違うことをしなければならない、と思うようになり、鬼退治に至った」と解釈されたそうです。

 こんな解釈をしたら、フロイトさんも口をあんぐり、というよりも、怒り出すかもしれません。
 
 この桃太郎話しの変遷を、『学校のない社会 学校のある社会』の中で中内敏夫さんが書かれた「教材『桃太郎』話しの心性史」から見ていきます。

 もともと「桃太郎」話しは、室町末期に桃信仰と島渡り伝説という別々の話しが合体してできあがったもので、400年の伝統がある。
 桃を食べて、あるいは川の水を飲んで若返った「ぢゞ」と「ばゞ」の間に赤ちゃんが生まれる話しが回春型。老婦人が川から拾ってきた桃から桃太郎が生まれたという果生型より古いタイプだ。
 
 これが江戸時代には草双紙といった出版物のかたちで広まり、まず最初は「赤本」という女性や子ども向けのマンガ本のようなものに
回春型の話しが登場する。

「昔々、爺は山へ柴刈りに、婆は川へ洗濯に。美しき桃流れ来しを取りて帰る。
  爺『あゝくたびれた。早く帰って婆が顔でも見よう』
  婆『やれよい桃かな。も一つ流れてこい。爺におませう』
 爺婆桃を服し、忽ち若やぎて一子を設け、桃太郎と名づく。」
 
 赤本の中には、「ばばあどのもいきなおんなになつていろけたぷりに」という表現や、桃太郎が後に女郎買いに出かける場面まで出てくるものまである。けれど
8世紀の徳川吉宗の享保年間あたりから子どもへの眼差し、つまり読者である子どもに寄せる人々の気持ちのありようが変化したことから、話しそのものも回春型から果生型へとの変わっていく。

「風俗之為にもよろしからざる」好色本の類として吉宗の政権が行った草双紙類取り締まり・弾圧を逃れて、「桃太郎」の話しは教育用童話の仲間入りをする。ただし一気に変わっていったのではなく、回春型と果生型の混合型がかなり長い間続く。
 学校教育の中で『桃太郎」が教科書に初めて採用されたのが明治20(1887)年の『尋常小学読本』。そしてこれ以後、国定教科書の中で語られていく。

 鬼ヶ島征伐に向かった桃太郎は、明治に入ってもしばらくは少年ではなく若衆の姿だった。若衆といっても特定の年齢に絞れるものではなく、若者宿に集った独身の男ということぐらいの意味。

( 若者宿については別名「ワローグミ」という語があるように、若衆は重要な労働力であると同時に、時には持て余すほどのエネルギーを持った手に負えない存在 です。桃太郎は、そんな「ワロー」のひとりだったのでしょう。そして明治27(1894)年の巌谷小波の作品では、「ワロー」は凛々しい美青年になっています。)

 そんな若衆姿の桃太郎が少年の姿で描かれるようになったのは第1次大戦の終わる頃。
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(上の写真は1781年に赤本で書かれた『桃太郎一代記』。
 上では若衆姿の桃太郎が鬼と連れだって歩いています。下では同行した鬼たちといっしょにこれから遊里で遊ぼうか、というところでしょう。遊女まで角が生えているようです。
この『桃太郎一代記』頃の鬼ヶ島行きは、単に「たからものをとりにゆく」とされていただけ。ワローの気質をよく見せてけっして、優等生ではありません。)

 幕末から明治にかけての国学者たちは、儒者たちが伝統的に捉えてきた「学ぶ」に対して、「教える」という考えを「愛(お)す」の発露として説く。成立して間もない「日本」という空間意識を記紀神話で裏打ちして三次元化し、桃太郎は「天津神」の申し子であるから『うつくし』まねばならぬという」「啓蒙的な形」をとった

 このことは巌谷小波の童話によく表れ、子供のいないのを嘆く爺婆の望みが神意によってかなえられ、そのためこれを慈しまねばならぬとされている。子の教育に対する親の義務が、ヨーロッパのように超越神ではなく祖霊神であるところに日本の特色がある。

 さらに明治末期になると、神意を持ち出して説いた愛育の義務があたりまえのこととして人々の心の中に入り込んでいったため、強調する必要も無くなくなる。

 すでに桃太郎話しは、鬼が「悪さ」をするので「こらしめに」いくという征伐話になっており、1898年の修身の教科書では「天子様」に忠義を尽くしたいと鬼退治に出かけ、やはり天子様への忠義の心で鬼たちを打ち負かす話しとして出ていた。

 回春型はとっくの昔に消えて、桃太郎は若衆姿ではなく、今日よく見る「気はやさしくて力もちの、生まれながらにして美徳を備えた少年の姿へと変貌。期待される人間像として教訓童話、修身童話のなかに受け継がれていく。 

「桃太郎」像という日本に住んできた人びとの心性に棲み込んできた子供像を利用し、これを加工することによって、薩長政権が心性の革命を起こそうとした。

 以上が中内敏夫さんのお話です。

 おもしろいのは別種の桃太郎がいくつも存在したことです。
 その中の一つ、芥川龍之介の桃太郎も見てみましょう。 

  鬼ヶ島を蹂躙した桃太郎に、鬼の酋長がおそるおそる尋ねる場面を抜き書きすると次のようになります。

  「わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致したため、御征伐を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明し下さるわけには参りますまいか?」
 桃太郎は悠然と頷いた。
「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱えた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
「ではそのお三かたをお召し抱えなすったのはどういうわけでございますか?」
「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、きび団子をやっても召し抱えたのだ。
――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」
 鬼の酋長は驚いたように、三尺ほどうしろへ飛び下がると、いよいよまた丁寧におじぎをした。


 第1次世界大戦後の1920年、ドイツ領だった南洋の島々の赤道以北が日本の委任統治領になります。芥川がこれを書いたのは1924年のこと。鬼が島は絶海の孤島で、「椰子えたり、極楽鳥ったりする、美しい天然楽土」。「この楽土にけた鬼は勿論平和を愛していた」といいますから、この南洋の島々が彼の念頭にあったのでしょうか。

 さすが芥川! 教科書の桃太郎とはひと味違います。でも、本来民衆の間に伝わっていた赤本の桃太郎とは、ずいぶん違うものになっていますね。


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イラク――不可能な国家

イラク建国 「不可能な国家」の原点
 ここ数日間読んでいた本です。著者はファクタ編集長阿倍重夫氏

 帯には「イラクの戦後復興はなぜ泥沼に陥ったのか」とありますが、書かれている大半は1921年のイラク建国前後の舞台裏です。
 イラクの部族社会に根回しをして国境線を引いた1人のイギリス女性ガートルード・ベルを中心に、「アラビアの」ローレンスや個性豊かなイギリス諜報局の面々が絡み、ベドウィンの雄イヴン・サウードが、そしてアラブ随一の名家ハーシム家から出て初代イラク国王となったファイサルが登場します。

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ガートルード・ベルと(アラビアの)ローレンス
  










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 20世紀初頭、瀕死の大国オスマン帝国のトルコにビスマルク後のドイツが触手を伸ばす。当時、現在のイラクにあたるメソポタミア地方はこの帝国の一部。富の源泉インドを領有し、ペルシャ(イラン)南西部の油田に利権を持つイギリスは、ヨーロッパとインドを結ぶ海路を握っていた。

 ドイツは、ベルリンからビザンチウム、バグダード、クェートまでをつなぐ鉄道を敷設し、ペルシャの族長たちをけしかける。強欲なイギリスに分け前をやることはない。やつらを放逐して、石油のすべてを自分のものにしろ、と。これを、族長たちは逆手にとって、イギリスの採掘料をつり上げようと、駆け引きに使う。

 これに対してイギリスはあらゆる策を講じようとして、2枚舌どころか3枚舌を使う
 1枚目は第一次大戦勃発直前の外相とトルコとの間のアラビア半島を南北分割する秘密合意(1914年6月)。(これ以外にもアラブの反乱の論功行賞としてハーシム家のフサインに自治権を与えるという約束を1915年7月~1916年3月の書簡で明言していた……4枚舌?)。

 2枚目はロシアの10月革命の結果暴露された「サイクス=ピコ協定」(1916年5月)。これは大戦後のオスマン帝国領の分割を約束してイギリス・フランス・ロシアとの間で結ばれたもので、メソポタミアはイギリスの保護領だった。

 3枚目は外相がロスチャイルド卿との書簡の中でユダヤ人国家の建設を約束したバルフォア宣言(1916年11月)。当時アラブの現地で汗を流すベルはこの宣言を知り、「いっさいの現実に目をつぶる、まるっきり机上の空論」と吐き捨てるように言う。

 アラブの古老から、いったいどの公約を信じればいいのか問われたローレンスは、相矛盾する文書のうちで、一番日付の新しいものを信じなさい、と答えている。
 1917年3月、バクダード陥落。オスマン帝国はメソポタミアを失う。ベルは占領地で新国家建設の青写真を描く作業に夢中になるが、そこにサイクス=ピコ協定バルフォア宣言が影を落とす。19年のパリ講和会議でベルとローレンスは、領土と油田の権益しか眼中にない政府首脳を前にして手を組んでアラブの将来のために奮闘する。が、中東を英仏の委任統治領にする以外何も決まらない。

 アラブ国家の樹立を急ぐベルはバダードのスンナ派長老を訪ね、その助言にほぼ従ってイラク統治政策の骨格をかためる。当時イラクの総人口280万人中150万人がシーア派だったが、当面の治安のために都市部の裕福な少数派スンナ派に依存して、多数のシーア派を封じ込めることにした。

 帝国としてイギリスが生き延びるためには、自発的な政府と行政を支援するか設立するべきだ、とベルは考える。しかし、本国政府も現地の民政長官代行も耳を貸さず、民政移管は一向に進まない。
 19年の暮れ、騒擾が発生。20年4月、英仏の両国は旧オスマン帝国領アラブの分割を決め、メソポタミアとパレスティナはイギリスの委任統治領になる。そこでアラブに暴動が起こる。シーア派のイスラーム法解説者たちがジハードを呼びかけ、ラマダーンが始まるとスンナ派とシーア派の信徒たちが結束しはじめる。イラク全土に流言卑語が飛び交い、族長たちは反乱密謀を凝らす。

 メソポタミアはイギリス軍と暴徒の凄惨な内戦に突入し、一方で野心満々の名望家の息子が己をメソポタミアの王に推戴させるべく陰謀を巡らす。この間、数百人のイギリス人の犠牲者が出て、大戦が終わったというのに多額の臨時出費がイギリスの国庫を直撃する。けれどアラブ人の犠牲はその数十倍、1万人を超えてしまう。

21世紀初頭の米国の躓(つまず)きとこれはよく似ている」と阿部重夫さんは言う。「専政の重い鉄蓋をあけたとたん、沸騰しはじめるメソポタミア。異邦人には見えないこの国の「地下」に、どんなマグマが隠れているのだろう」とも。

 21年、新しい高等弁務官の着任と共に民政移管は実行に移され、11月にはスンナ派主導のアラブ人の暫定内閣が発足する。イラクとペルシアの国境線はベルが引き、スンナ派とシーア派は再び分断される。
 イラクの統治はイギリス人顧問団と王家とスンナ派にゆだねられ、アラブ系の族長たちは、ペルシア系が優勢なシーア派のイスラーム法学者たちへの反感を煽られる。
 
まさに分断して統治せよのとおり。

 21世紀のイラク、今年の1月29日シーア派の聖地ナジャフでイラク治安部隊と駐留米軍が交戦した相手は、シーア派の聖職者殺害を計画するスンニ派の武装勢力だったとCNNは伝えている。
 が、シーア派そのものもまた分裂している。サッダーム・フセインの政権と対峙しなかったシスターニー師やホエイ師を許さない勢力が存在しており、そのひとつが、私たちもたびたび耳にしたムクタダ・サドル師を支持するグループだ。彼の父親は、サッダーム・フセインの刺客に殺されている。

 この分断と分裂の状態を「近代国家の前提となる均質性」が欠けていると、阿倍重夫氏は見る。
 
 21年3月、時の植民相ウィンストン・チャーチル、ローレンス、ベル、高等弁務官コックスがカイロに会し、新国家の国境を決めた。クルド人の多い北部、正統スンナ派のアラブ人の多い中部、シーア派のアラブ人の多い南部、さらにそこにペルシア人、ユダヤ人、ネストリウス派キリスト教徒といった少数派が入り込んでいた。
 中部と南部だけでは反抗的なシーア派が多数を占めて、御しやすいスンナ派が劣勢なるということで、ベルは3地域を一括して、さらには北部の油田の権益も考慮しながら地図に国境線を書き入れる。クルド人の住む北部は分離すべきだ、というローレンスの意見はベルに一蹴された。
 イラク南部とクェートとの間、砂漠の空白に中立地帯の線を引いたのもベルだった(1923年)。
 
 ベルの画策で実現したファイサルによる王政は、1958年の軍事革命で幕を閉じた。

初めは傀儡アラブ人王(ファイサル1世のこと)政、次はコミュニズムと結託した軍事独裁、そして汎アラブの疑似社会主義政党(バース党)独裁、そしてサッダームの個人崇拝の恐怖政治……と強権支配が続いたのは、部族制の根強いこの地では近代西欧型の完結した国民(民族)国家が不可のだからだ、それでもイラクが国家として存立できたのは、はじめはベルやローレンスの背後で「インドへの回廊」を守ろうとした英国の意志があったからであり、1970年代の石油危機から湾岸戦争までは冷戦の盾や反ホメイニーの防波堤として米国が必要としたからである。
 
 今回のイラク侵略戦略を立てた超大国米国の政権中枢やその追随者たちは、ベルやローレンスが経験したような挫折と懊悩にある内省を驚くほど欠いている。ベルが設計したキメラ(混在)国家が無理なら、イラクを解体して国境線を引き直さなければならないはずなのに、国家の原点に帰るだけの構想も資源もない、と阿倍重夫氏は断じる。

 日本の戦後をモデルに考えて、イラクに期待を裏切られたブッシュのアメリカ。

 ひるがえって日本は先の大戦に敗れたばかりか、今も忠実に「アメリカからの改革の要望」に応え続ける。イラクにあるマグマが私たちの国にはないのだろうか?

麻布の三連隊とか師範学校生の優遇とか

関東を旅した折りに、かねてからの念願だった2.26事件の舞台、麻布歩兵第三連隊の旧兵舎を見てきました。  東大の施設として使われてきたかつての兵舎を2002年に解体した際、一部が残されて改装されたようです。外壁も塗り直され、モダンなデザインは古さを感じさせません。

 現在はすぐ隣にできた国立新美術館の管理になっているという話しでした。


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ただ玄関へのアプローチの手すりに,、往時をしのばせる痕跡があるだけでした。

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秩父事件から122年

関東を旅して、長年暖めていたもののひとつをやっと実現しました。もう30年も昔になるでしょ
うか、井出孫六さんの著書を読んで以来、ずっと気になっていたことですが、足を伸ばして、
秩父困民党が政府軍と衝突したという、当時の金屋村、現本庄市児玉町金屋の、真言宗豊山
派の古刹「円通寺」を訪ねてきました。
 山門
 運良く、庭に出ておられたご住職の西尾さんに出会い、お話をうかがった上に困民党のお墓
まで案内していただきました。 20061109154850.jpg
お墓
 もともと、ただ石を積んだだけで辛うじて墓と分かるだけだったものを、西尾さんがこうして整
備・弔いをされたとのことです。
 20061109154817.jpg
20061109154833.jpg
 望遠で撮った問題の門。銃痕がまだ残っているそうですが、あいにく私の方の都合でそこま
で確認にいけませんでした。次の機会には是非訪ねてみたいと思います。元教員をされてい
た方が今住まわれているとのこと。
 墓地から見た本堂
 

 墓地から見た本堂。 本堂
   当時、本堂の屋根は藁葺き(茅葺きではありません)で、負傷者はこの本堂の廊下に寝かさ
れて、彼我の別なく医師の手当てを受けましたが、ほとんどは困民党の人員でした。ものの本
には死者15名とありますが、実際は7名です。その氏名も明らかではありませんでしたが、最
近子孫の方がお参りにみえて、お一人の名前がやっと分かった次第です、とは西尾さんのお
言葉です。  「風布」は昔から「ふっぷ」ではなく「ふうぷ」と呼ばれていましたし、実際は、政府
軍も高崎ではなく浦和から来ていますよ、とも言い添えてくださいました。  

金屋村が後に合併した児玉町は、明治以来、養蚕技術の改良・普及活動の拠点となった競
進社のあったところです。今でこそ探さないと見つからないほどですが、昭和30年代まではこ
のあたりでも桑の木が畑を覆い尽くしていたことでしょう。蚕の育つ時期は家人が総出で昼夜
の別なく給桑し、1日中蚕が桑をはむザワザワという音がしていたといいます。 そうしたこの地
方の人々の暮らしと、生糸価格の暴落と増税で生活に困窮して、「恐れながら 天朝様に 敵対
するから 加勢しろ」と立ち上がった秩父の人たちへの思いが渾然として凝縮し、迫ってくるよう
感覚を覚えます。
  この日はちょうど11月4日。  年表を見ると、期せずしてここで戦闘のあった日と重なり
ます。122年前の11月4日夜半のできごとでした。

陸大出の栄光・軍部の専横

 1945年、夏、日本に降伏を迫ったポツダム宣言受諾をめぐって問題になった国体護持とは何でしょうか。そもそも、護られるべき「国体」とは何だったのでしょうか。

 稲田朋美さん達が主張する「天皇親政」がこの国体を指すことになるのでしょうが、祭り上げた天皇のもとでエリート達が国政をほしいままにする体制が、この「国体」だったのではないでしょうか。

(今、稲田氏のHPをみると、肝心の部分が削除されています。なんだかねえ、爪を隠したんでしょうか。
「明治維新は700年前の天皇親政を取り戻しながら、近代化を推し進めた、ここに明治維新の特徴があったわけです。だからこそ日本は困難な時代において、アジアで唯一欧米に植民化されることなく、日清、日露の戦争に勝ち、近代国家へと生まれ変わることができたのです。私は、日本再建のキーワードとして「伝統と創造」を掲げ、日本のよき伝統を守りながら創造を続けることで真の改革を実現したいと思っています」と、削除された一部にあったのですが)。

 孫引きで恐縮ですが、昭和37年に時事通信社から出た、日本陸軍最後の参謀次長・河辺虎四郎中将の書『市ヶ谷から市ヶ谷へ』には、「事実軍部の中枢には“天保銭組”が座した。したがって“軍部”の構想は“天保銭組”の頭脳から流れた」とあるそうです。

 軍人勅諭で禁じられていたにもかかわらず、とりわけ広田内閣で軍部大臣現役武官制が復活(1936年)した後、全会一致を旨とする閣議に対する軍部の専横は目に余り、国政をも左右することとなります。

 ただでさえ肩で風を切って意気軒昂に、陸軍省と参謀本部の要職はすべてこの天保銭組が独占したそのうえに、国政も思いのままとは。この時の栄光は、容易には忘れがたいものでしょう。

 ただし、60年にわたる陸軍の歴史の中でこの華々しさを誇るのは最後の20年ぐらいで、とくに大正末から昭和の満州事変までは世間の目は冷たかったといいます。とりわけ宇垣陸相断行の4個師団廃止あたりは、軍人といえば税金泥棒扱いされていたとか。

 この世間の評価を、軍人たちは自らの行動で変えていこうとしました。初めはクーデターで、次は内閣制度の内側から。

 満州事変の前年、1930年10月に、国家改造を目指す青年将校たちが結成したのが「桜会」。これより先の大正10年(1921年)に陸大出のエリートは「二葉会」の会合を重ね、昭和3年(1928年)には別な流れの「一夕会」も始まっています。

 二葉会の初会合はドイツのバーデンバーデンで開かれ、ここでの大きな話題がルーデンドルフの総力戦論で、東条英機もベルリンより参加しています。

 ここで今に自分たちの時代が来ると臥薪嘗胆を誓ったわけです。

 桜会は発足した翌年の1931年5月頃にはおよそ150名の会員を擁し、そのメンバーを見れば、アジア・太平洋戦争で大きな役割を担ったものの名がずらりと見えます。

 第1次大戦後の不況に1927年の金融恐慌が追い打ちをかけて国民生活か困窮を極めた時代、浜口雄幸首相が右翼の凶行にあい、労働争議、ストライキが頻発する時代。

「日本は内外ともに重大な危機に直面している。まさに非常時である(どこかで聞いたような文句ですね)」と桜会は訴え、強力な国家統制が必要である、と力説するのです。

 満州事変が起きると繰り返し満州の関東軍に打電してその行動を煽りに煽ったうえにクーデター計画に着手する橋本欣五郎中佐のようなものも出てきます。
 かれらが連日連夜赤坂、新橋などで芸妓を呼んだ宴会を開いて計画談義をしたという話しからは、後日の、太平洋戦争中の高級将校連の遊興三昧が連想されますね(この様子を見て愛想をつかしたもの達もいたらしい)。
 
 何度かクーデターが計画され、未遂に終わりますが、血盟団事件、五・一五事件、そして二・二六事件と、時代は息つぐ間もなく流れます。

 二・二六事件後に監督不行届で軍長老が現職を辞し、また岡田内閣も総辞職。広田弘毅が組閣を行います。ここで、1913年に予備・後備役にまで拡張した軍部大臣の任用資格を、再び現役の大中将に限定したのです。これが軍部大臣現役武官制復活です。
 この時の陸相が寺内寿一。シベリア出兵を行い、米騒動で総辞職した寺内正毅の長男で、長州閥に連なります。
 組閣の際には、陸相予定者としてこの寺内寿一が自由主義者を大臣にするな、と要求。さらには陸軍大臣になれるのは現役の大将か中将に限定せよ、とごり押ししたわけです。

 これがどういう意味を持つかというと、

 政策等が気に入らないときは陸相がひとり辞任し、その後継を推薦しない。閣議は全会一致が原則のため、陸相が欠けては内閣は機能不全に陥り、総辞職においこまれる、ということです。これにより、以後陸軍は政治をほしいままにすることが可能となりました。

 ちょっとした制度改変がどれほど重大な結果を招くか、ということを示す良い例です。

 とりわけ相手方が執拗に迫ってくる場合は要注意。
 
(来週は軍部の問題をさらに詳しく見ていくつもりです)。

旧軍将校の出世競争は、学校の成績がすべて

 コギトエルゴスムさんのリクエスト「軍部大臣現役武官制復活」を考える前に、旧陸軍の「軍閥」形成の軸となった人的つながりについて調べてみました。

 明治15年(1882年)に「軍人勅諭」が発布されてから、敗戦による武装解除までのおよそ60年間が、日本陸軍の勃興期から終焉までの歴史です。そして陸軍がその絶頂期を迎えて敗戦に突入するのは、およそ20年にすぎません。
 その間日本を動かした軍人は、大体、日清戦争(1994~95年)あたりから20世紀に入る頃に生まれた人たちです。
 社会階梯上昇の大きな手段となった軍隊で功成り名を遂げたエリート軍人たちの華々しさは、今の私たちからは想像もできないようです。

 陸軍将校を養成・教育する学校が陸軍幼年学校、陸軍士官学校で、よくいう「同期」とは、この幼年学校と陸士の卒業年次が同じということ。
 つまり同期生は、14歳頃から22、3歳という多感な時期を学校内の寄宿舎で朝起きてから夜寝るまで、共に過ごした仲間、ということです。青年期を8年も9年も寝食を共にするわけですから、親兄弟以上の心の繋がりがあると言っても過言ではないのですが、卒業後は階級も与えられる職柄も、どんどん異なっていくことになります。

 この同期の中で格差の生じる原因が、幼年学校、陸士での成績だというのですから、驚いてしまいます。とにかく成績が、軍隊での出世に決定的な影響を与えたというのです。
 同一条件の下で10年近くの歳月を過ごすわけですから、成績以外に差をつける要因がないのです。

 さらにはこの後、同期でも陸軍大学校に進学したものとしなかったものの差が如実に表れ、陸大卒業生のみが軍部の中枢である陸軍省、参謀本部に座し、「幕僚」と呼ばれました。

 軍隊教育の中枢を担う先輩たる軍人教師は卒業生の中でもとりわけ成績優秀で、師弟は、軍隊にいる限り生涯関わり合います。
 そしてこの関係が、国政レベルでの問題にも大きな影響を及ぼすことになるわけです。

軍隊はまさに官僚制機構の最たるものでした。

1つ屋根の下で同じ釜の飯を食った「同期」、県人会意識をもとにした同郷の先輩・後輩関係、そしてここに君臨するのは陸大卒業生の、いわゆる天保銭組(陸大卒業生のみが軍服につけた徽章が天保銭に似ていることに由来する)。

 甚大な被害を出し、第一線の指揮官たちが相次いで自決するノモンハン事件、その他の例を出すまでもなく、不公平な人事、作戦が失敗したときの甘い処分、無責任・腐敗体質等は、こうした人的繋がりに大きく起因する、というのはいいすぎでもないような……。

 現在の自衛隊が、この旧軍の伝統とどれほど違っているのか私にはわかりませんが、『逃げたいやめたい自衛隊』では、いまなお旧軍時代の言葉がとびかっているといいます。「早メシ、早グソ、要領は旧軍の伝統」、「『皇軍の伝統』を継承した内務班」、「連隊長、師団長は雲の上の人」……目次を読むだけでも、ちょっと興味をそそられます。

「……慎重論や自重論を主張しても弱腰、卑怯者扱いにされがちだった。大言壮語で国家を語り、強硬論を吐き、猪突猛進方の参謀の方を優秀と評価した」と、山中恒さんはその著『アジア・太平洋戦争史』で、日本陸軍の体質に言及しています。

 もともとは、「軍人勅諭」によって現役の軍人は政治に干与してはならないと戒められていて、一応それは1939年(昭和14年)の『軍人勅諭謹解』でも変わりませんでした。けれど第1次世界大戦後の国家総力戦時代を迎えて、満州事変以来日本は平時から準戦時体制をとり、軍部は非常時といいながら国民の不安を煽り、軍事予算は最優先され、次第に軍部は政治力を大きく発揮していくことになるのです。

甲種合格の籤逃れ

 普通、初年兵が入隊するのは1月の10日ですが、『2.26事件と郷土兵』の証言をみていると、異なる日付が散見されます。



 そのうち、1月20日に入隊したひとりが、「これは甲種合格の籤逃れで入営を免れたが、中隊の方に欠員が生じたので補充の形で入隊を命ぜられたためである。」と語っています。



 「徴兵と籤」の意外な取り合わせに初めは驚きましたが、これが当時の若者の理想だったようです。



 男と生まれたからには甲種合格したい。でもそれでは現役徴集される可能性が高い。願わくば、甲種合格して、籤にあたりませんように! といったところでしょうか。



 日本の旧軍の性格については、さまざまなところで証言が見受けられます。



「生きて虜囚の辱めをうけず」の戦陣訓によってどれだけ多くの犠牲者が出たか、戦死者の過半数は戦闘死ではなく餓死・病死である、下級兵士が戦場をはいずり回る間、高級将校たちは安全なところで酒池肉林等々の他この『2.26事件と郷土兵』の中にも、「終始無理な戦闘をやるので激戦にならざるを得ない」という言葉がみられます。



 そもそも、戦争の大義とか作戦自体がおかしかったのですから。



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ハムニダさん所でみた軍人コスプレのこの方は、そんな事情を知ってか知らずか。



 ご存じであれば、まあ、勝手におやりください。でも、他の人まで道連れにしないでくださいね、私はごめんです、と言いたいです。 



 さて、明治以来の徴兵令は、1927年に兵役法が公布されたことで廃止されました。



 その結果、男子は20歳になると徴兵検査を義務づけられ、判定結果は「甲種」「第1乙種」「第2乙種」「丙種」「丁種」と分類されて、「丁種」以外は連隊区司令部の兵役原簿に記入保管されました。



 この原簿から誰を召集するかは連隊区司令部の権限で、1939年までは、甲種、乙種の合格者の中から必要な人数が集められました。



 父は170cmを超えた、当時としては珍しいほど大柄で健康そうな男子でしたから、もちろん甲種合格でした。「優秀な帝国臣民」と認定されたわけです。



 籤に当たって10日に入隊したのか、それともひとまず籤で逃れて後日入隊したのかどうしたのか分かりません。



(が、ともかくも1936年2月26日に、父は第1師団歩兵第3連隊(麻布3連隊)にいたのですが、歩兵第3連隊も全ての中隊が事件に参加したわけではなく、当日の夜、決起将校が週番指令をとっていた中隊に限られています。)



 それはさておきこの籤ですが、引くのは本人ではなかったということです。自分の運命が他の人の掌中にあったのも皮肉なものですが。



 ところが、それに承知しなかった人たちがいたのです。



 連隊区司令部では金品と引き換えに原簿の破棄や兵役に耐えられない病歴の記載等の不正で召集を免れた人たちです。父の生家も、けっして貧しくはない農家でしたが、そんなこと考えもしなかったのかもしれません。

 召集を逃れたものの職業をみると、軍需景気で儲けている人や会社の重役が圧倒的に多く、その他配給業務に携わる幹部料理屋の主人群を抜く知名人であったといいます。



 こうした人たちが、いわば戦時中の勝ち組、といったところ。その他大勢の負け組は貧乏くじを引いたわけです。



 そんな現状を揶揄した替え歌がこれです。



  世の中は に に ヤミに顔
    官に尾を振る ポテやくざ
  真正面(まとも)じゃ末成(うらな)りネエ 青びょうたん 
    水でふくれて 死ぬばかり



 星は陸軍、碇は海軍、ヤミはヤミ商人やブローカー達、軍需景気で儲けた人や会社の重役、顔は、その筋の顔きき。



「さのさ節」の替え歌ということですが、「ネエ、さのさ」で終わるこの歌のメロディーは覚えていません。父が懐メロ番組でよく聞いていましたが。

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