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排泄作用としての詭弁術

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 華氏451度さんが『断腸亭日乗』をとりあげて、永井荷風が、戦時中の時局に_296
迎合した記事論説のことを
人間の美徳や善行を意味する言葉はその本質を失ってしまい、代用語に成り下がった」と皮肉たっぷりに書いていることにふれられています。

 (写真はあじさいの代用品というわけでもありませんが、ドライ・あじさい)



 そういえば、戦時中の写真や資料をちょっとでも見れば、「代用品」がやたらと多いのに目がいきます。

 梅本忠男写真集にも、1943年頃に撮られた、デパートの売り場と思しき優良代用品売り場という写真があります。アルミの鍋の代用品に、陶磁器製の鍋が売られていたのでしょうか。



 ほぼ日刊イトイ新聞」によると、「優良代用品選定委員会」いう公的な機関まで設置され、国の政策として代用品作りが奨励されていたということです。



 Toki_dobin
南部鉄を模した陶器の土瓶、



 Gas
ガスバーナー、



Konsent
コンセントあたりまでは分かりますが、



Toki_shuryudan
 手榴弾まで陶器製の代用品とは。



 





 精巧に作られた土瓶を見ると、贅沢を禁止された江戸期の商人たちが、羽織の裏などに手間暇かけさせたのを思い出します。



 陶磁器ばかりでなく、竹や紙、木が利用されていて、紙製の洗面器まであったようです。



 こうした金物不足のための代用品に対して荷風のいう「代用語」は、すり替えに使った、本来の内容を失っているもの、空疎な言葉を指しています。



 それだけで良いもの、価値あるものを示すような語が、有無をいわせず価値を押しつけるように、代用語に使われますね。



 これを多用したというか、弄したのが小泉ジュンイチロウ氏。彼の使った弁そのものが、代用弁、とでもいいたくなるような代物でしたね。



「排泄作用としての詭弁術」なんてタイトルを考えた私ですが、それほどジュンイチロウ氏の話には「論」も「誠」も感じられませんでした。ただ、彼
なりの方法で消化された、口から吐かれる排泄作用の結果としての語の連なりでした。思索も技もあったものじゃない、ということだけが感じられました。



  Photo_2ロンドンのフロイトミュージアムには、フロイトが唱えた発達理論に示される発達時期のひとつ、肛門期に因んだオブジェが大きなテーブルにも、書斎の小テーブルの上9にも、いっぱいに飾ってあります。





1





(2枚の写真をクリックしてうんざりした方は、3枚目の写真で玄関から出て、外の空気を思い切り吸収してください。初冬の冷気で、頭もすっきりするかもしれません。)



「美しい」とか「優しい」とか「あたたかい」とか、言葉だけ聞いたら、真面目な私たちは何もいえなくなってしまいます。



 シンゾー氏の「美しい国へ」に続いて、先日のニュースでチラッと見た、アソー氏が政権構想か何かでいったという、「小さくとも強い政府、温かい政府」という言葉も同じ流れですね。



 これを聞いたとき、子供が通っていた幼稚園の標語が「強い子よい子明るい子」だったのを思い出しました。



 試しに子供に尋ねてみました。強い子よい子明るい子ってどんな子?



犬とけんかしても負けない子」で「電気みたいに明るい子じゃない?」というのがその答え。よい子について何と答えたか、忘れてしまいました。もしかしたら、お母さんのいうことをよくきく子、だったかもしれません。



 まさか、強い政府が犬と喧嘩しても負けない政府で、温かい政府が電気のように温かいとか、そんなこととは思われませんから、もっと丁寧に、何がおっしゃりたいのか、誠実に対応していただきたい、と思った次第です。



 くだらない連想の書き連ねでした。m(_ _)m





 



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甲種合格の籤逃れ

 普通、初年兵が入隊するのは1月の10日ですが、『2.26事件と郷土兵』の証言をみていると、異なる日付が散見されます。



 そのうち、1月20日に入隊したひとりが、「これは甲種合格の籤逃れで入営を免れたが、中隊の方に欠員が生じたので補充の形で入隊を命ぜられたためである。」と語っています。



 「徴兵と籤」の意外な取り合わせに初めは驚きましたが、これが当時の若者の理想だったようです。



 男と生まれたからには甲種合格したい。でもそれでは現役徴集される可能性が高い。願わくば、甲種合格して、籤にあたりませんように! といったところでしょうか。



 日本の旧軍の性格については、さまざまなところで証言が見受けられます。



「生きて虜囚の辱めをうけず」の戦陣訓によってどれだけ多くの犠牲者が出たか、戦死者の過半数は戦闘死ではなく餓死・病死である、下級兵士が戦場をはいずり回る間、高級将校たちは安全なところで酒池肉林等々の他この『2.26事件と郷土兵』の中にも、「終始無理な戦闘をやるので激戦にならざるを得ない」という言葉がみられます。



 そもそも、戦争の大義とか作戦自体がおかしかったのですから。



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ハムニダさん所でみた軍人コスプレのこの方は、そんな事情を知ってか知らずか。



 ご存じであれば、まあ、勝手におやりください。でも、他の人まで道連れにしないでくださいね、私はごめんです、と言いたいです。 



 さて、明治以来の徴兵令は、1927年に兵役法が公布されたことで廃止されました。



 その結果、男子は20歳になると徴兵検査を義務づけられ、判定結果は「甲種」「第1乙種」「第2乙種」「丙種」「丁種」と分類されて、「丁種」以外は連隊区司令部の兵役原簿に記入保管されました。



 この原簿から誰を召集するかは連隊区司令部の権限で、1939年までは、甲種、乙種の合格者の中から必要な人数が集められました。



 父は170cmを超えた、当時としては珍しいほど大柄で健康そうな男子でしたから、もちろん甲種合格でした。「優秀な帝国臣民」と認定されたわけです。



 籤に当たって10日に入隊したのか、それともひとまず籤で逃れて後日入隊したのかどうしたのか分かりません。



(が、ともかくも1936年2月26日に、父は第1師団歩兵第3連隊(麻布3連隊)にいたのですが、歩兵第3連隊も全ての中隊が事件に参加したわけではなく、当日の夜、決起将校が週番指令をとっていた中隊に限られています。)



 それはさておきこの籤ですが、引くのは本人ではなかったということです。自分の運命が他の人の掌中にあったのも皮肉なものですが。



 ところが、それに承知しなかった人たちがいたのです。



 連隊区司令部では金品と引き換えに原簿の破棄や兵役に耐えられない病歴の記載等の不正で召集を免れた人たちです。父の生家も、けっして貧しくはない農家でしたが、そんなこと考えもしなかったのかもしれません。

 召集を逃れたものの職業をみると、軍需景気で儲けている人や会社の重役が圧倒的に多く、その他配給業務に携わる幹部料理屋の主人群を抜く知名人であったといいます。



 こうした人たちが、いわば戦時中の勝ち組、といったところ。その他大勢の負け組は貧乏くじを引いたわけです。



 そんな現状を揶揄した替え歌がこれです。



  世の中は に に ヤミに顔
    官に尾を振る ポテやくざ
  真正面(まとも)じゃ末成(うらな)りネエ 青びょうたん 
    水でふくれて 死ぬばかり



 星は陸軍、碇は海軍、ヤミはヤミ商人やブローカー達、軍需景気で儲けた人や会社の重役、顔は、その筋の顔きき。



「さのさ節」の替え歌ということですが、「ネエ、さのさ」で終わるこの歌のメロディーは覚えていません。父が懐メロ番組でよく聞いていましたが。

2.26事件との遭遇

『2.26事件と郷土兵』という、埼玉県編纂の2.26事件証言集に目をとおす機会に恵まれました。なんでも事件参加者の半数以上が埼玉県出身者だったことから、県史の別冊として刊行されたもののようです。



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1981年の刊行当時はまだ存命中の父でしたが、証言者の中には入っておりません。でも、恥ずかしながら、どのページを読んでも、どの写真を見ても、涙があふれてくるのを抑えられません。



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事件参加者のほとんどが、父の生年、大正4年前後の生まれです。



 これまで私自身は、2.26事件というものをなんとなく避けてきた気がします。父もほとんど語ることはありませんでした。ただ、「父ちゃん、怖かった」と、かすかに笑いながら、チラッと言ったことだけ覚えています。



 それで今頃になって知り、驚いたこと。



 計1,558名の参加兵員のうち、なんと父のような初年兵が、1,027名を占めているのです。事件参加者のうち、3分の2が初年兵だったのです。



 初年兵のほとんどは満20歳の年が明けた1月10日に入営し、翌月の26日に事件に遭遇しているのです。





  父がどの連隊に属していたのか、とうとう最後まで聞くことはありませんでしたが、当時の徴兵区から考えると、第1師団歩兵第3連隊(麻布3連隊に同じ)のいずれかの中隊に属していたのでしょう。



 歩兵第3連隊は蹶起軍1,558名のうち937名という最大多数を擁し、「入隊後は訓練と内務に明け暮れ、毎日が追い立てられるような忙しさ」の中で、2月26日を迎えています。



 2月26日、午前1時、あるいは3時、あるいは4時というように、突如非常呼集されてゆり起こされた時刻は中隊によって異なるようです。そして軍服着用。軍装の整ったところで待機。



 明治神宮参拝、あるいは昭和維新の断行、暴動鎮圧、尊皇討奸、靖国神社参拝、といったように、真偽にかかわらず、一応目的を告げられたところもありましたが、どこへ行くのか、目的が何なのか、まったく知らされずに黙々と営門を出ていったところも。



 各所の襲撃は、午前5時を期して一斉に行われました。



 下士官や2年兵の中には、事件前の連隊の雰囲気、また教育進度の速いことに疑念を抱いた人たちもいたようですが。



 上官の命令は絶対でしたから非常呼集で出動したときも何ら疑わずに従っていき、29日に撒布されたビラをみて、上等兵でさえ、「これほど驚いたことはない」というほどでした。ビラでは、命令に服従したのが誤りであったと説明されていたためです。



 そこには、命令には2通りあって、服従しなくとも良い場合があるのか、と悩む姿がありました。



「今思うと2.26事件の参加は軍隊の裏面を見せられたようなもので、命令による行動にも服従する側にとっては正従か盲従かをよく弁えねばならぬことを教示された気がする。こんな馬鹿げた話しは他にはない。命令は朕の命令しかないはずである。



 反乱軍とみなされて鎮圧軍と対峙するも戦闘を交えずに原隊復帰。1ヵ月のあいだ監禁状態に置かれ、父親である私の祖父も面会を許されていません。そうして4月下旬に監視付の上で帰郷。自宅に帰れる者もいれば、小学校での集団面会しか許されなかった者もいます。その間たったの数時間。



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そして5月に渡満



 「また満州にあっても犯罪者、罪滅ぼしの言葉は耳にタコができる位聞Photo_3
かされ、同時に猛訓練を課せられた揚げ句北支に派兵させられたこともみようによっては一連の仕打ちであったのではなかろうか。


 やはり政治が悪いとすべてが狂ってしまうものである。こPhoto_47れは現代でも同様の筈だ。」



 渡満して翌年、12年の7月、廬溝橋事件を発端に北支事変が起こり戦火が拡大して、連隊に出動命令がおります。



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「これから長城作戦を開始する。お前たちは日頃鍛えた力量を発揮し反乱軍の汚名をそそぐよう身命を投げ出して戦闘を遂行せよ」という連隊長の訓示に、「この期に及んで事件を引き合いに出すことは戦闘の名目で我々を殺すつもりか……私は悔しくてならなかった。」と、40何年か前のことを述懐する証言もみられました。



 
Photo_49そして、「敵も死にものぐるい」で、「予期以上の激戦」が続きます。



終始無理な戦闘をやるので激戦にならざるを得ないのである。」



「事件当時入隊したばかりの初年兵だった者が、今北支の戦野で罪滅ぼしの責を背負って激戦地廻りをさせられるとは昭和十年兵は全く不運の星の下に生まれた者である」という証言者の言葉に、また涙がこぼれます。



 反乱兵士の汚名をきせられ、さらには厳重なかん口令がしかれ、拡大していく戦線の最前線に駆り出され、事件参加兵たちの多くは戦死していきます。





軍隊の不条理」ですますにはあまりに重たい、無名の人々の生と死です。



 今では、当時の父の年齢を、子供たちさえとうの昔に超えてしまいました。





戦時下コピーと日本の軍隊 夜店のバナナ

日本の軍隊 夜店のバナナ
 買(勝)った 買(勝)ったと
  ま(負)けてゆく



 大本営発表とは裏腹の戦局に、軍隊内では密かにこんな歌が歌われていたといいます。自嘲気味のヤケクソ気分……私の父親もこんな歌を歌っていたら、と思うといたたまれない気持になります。
 



 相次ぐ撤退、玉砕の報。食料事情はますます悪化し、1944年6月には、中学生の勤労動員が始まります。



 今日もまた、情報局発行『写真週報』の「時の立て札」から。  



  闇や買い出しで自分だけ
  豊かに食べたがる人たちに
  日本の有難さ、良さが、味はへるだらうか
  凍土にたち、湿田に入り、汗と泥土にまみれて
  食糧増産を続ける農村の現実を
  食事のたびにしみじみと味はってみることだ
  食物のことはそれからの話しにしよう
              (1944年1月12日号)



  お父さんは今日も三割増産だとはりきり
  お母さんは大根の葉でうまいおかずを作り
  おぢいさんは一坪庭園に馬鈴薯を植ゑ
  おばあさんは小布を集めて足袋を作り
  子供たちは寒くないぞと勇んで学校へゆく
   工員でなくとも飛行機をつくる道はある
   みんなが自分の持ち場に力一杯つくすことだ
   私たちの家庭も
   いはば飛行機工場の協力工場であり
   わたしたちは栄誉あるその工員なのだ
                  (2月23日号)



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         『写真週報』では、何坪かの空き地があったら、「皆んなで芋を作らう」と、畝の作り方から植え付けまで、写真付きで説明しています。



 輸送船は軍需物資を運ぶに使うのだから外地からの米を期待してはいけない。武器を送るために、戦争に勝つために、食料は自分たちでつくろう。それが国民の義務だ、とかけ声をかけながら。



 何でも、首相就任時、東条英機は、「ごみ箱宰相」とか「東条さん」とかいわれて、国民に人気があったといいます。



 なぜ「ごみ箱宰相」かというと、国民生活の実態を知ろうと朝の散歩時に公園や家庭のごみ箱を覗くというパフォーマンスを行ったためだとか。きっと、メディアがそれを追いかけたのでしょうね。



 昭和16年の流行語は、「外食券」「錬成」「肉なし日」「歩け歩け」「憂・良・可」「ABC包囲陣」「みそぎ」「行列買い」「箸持参運動」「ごみ箱宰相」「奉安殿」「出せ一億の底力」「ニイタカヤマノボレ」 だったそうです。すべて戦争絡みですね。



 小泉ジュンイチロウ氏の数々のパフォーマンスや安倍シンゾー氏の、とってつけたようなパフォーマンスの先達はいたのです。



 そして、パフォーマンスとかけ声の政治に熱狂したのも、昔だけではありませんでした。





テポドンだ、断固として?(笑)「疑惑のトライアングル、安倍晋三・文鮮明・金日成」バナー

情報と検閲

 まず、2006年8月22日づけの仏リベラシオン紙の記事をご覧ください。

日本、フランスTV局「フランス5」のドキュメンタリーに反対する

一ヵ月半前から、きわめて密かに、在仏日本大使館がフランス5に対して、光プロダクション制作の52分のドキュメンタリー映画「日本、過去の影」(すでに この冬、独仏共同出資のTV局アルテで放送済み)をプログラムからはずすことを求めようとした。日本側外交官は公共放送であるフランス5に何度か電話を し、フランス5の経営者に対しても書簡を送り、東京とソウルの両方が自国領だと主張している竹島(韓国名独島)をめぐる領土係争について、また、戦犯を祀 る靖国神社問題について、さらに、日本の歴史教科書の歴史修正主義について、この映画の中に間違いがあると主張していた。フランス5では、「日本大使館か らの問いただし」があったことを認め、それは「ドキュメンタリー制作者との話し合い」を経て解決したとしている。結局、この映画は予定通り8月18日金曜 日に放送された。


(以上、リベラシオン紙から) 


 在仏日本大使館が問題であるとした具体的な内容はまったくわからないのですが、プログラムから外すように他国の放送局に求める。それも、密かに複数回、電話や、果ては経営者への手紙で、放送はやめてくれ、と要請する


 これには尋常ならざるものを感じてしまいますが、こんなことって、ありうるのでしょうか。またこの記事の読者は、大使館が直々にこうした行為をすることについて、どう考えるのでしょうか。


 ほんとうに問題があれば、「密かに」、こそこそとではなく、堂々とやればいいことです。


 一体、日本大使館は何を考えているのでしょうか。


 かつての安倍・中川両氏のNHK介入問題もあります。


 在仏日本大使館はフランスにおける日本政府の代表ですから、その言動は日本政府の言動とみなされるわけでしょうし。まさか、内弁慶で、国内では無理難題のごり押しをしても、外国、ことにヨーロッパ先進国に対してはこそこそせざるをえないようなことをしているのでしょうか。


 なんだか、とても恥ずかしい(恥ずかしいからこっそりする→結果、もっと恥ずかしいことになる。恥の上塗り、ですね)。 


 駐日フランス大使館が日本の放送局にこうした要請をすることがあったら、たとえばアルジェリア問題の扱い方が間違っているからプログラムから外してくれ、などと求めてきたら、日本の放送局はどうするのでしょうか。それも、そうっと、こそっといってきたら。そしてそのことが新聞記事になったときには、日本の読者はなんというでしょうか。 


 さてさて、1973年の春、毎日新聞横浜支局の新館移転の際、戦時下の情報統制を示す資料が発見されました。毎日新聞検閲部の「検閲週報」数冊分の綴じ込み、612ページです。


 静岡県立大学の前坂俊之教授がそれについて書かれていますので、ちょっと見てみましょう。


「検閲週報」には、1940~1945年のあいだ戦時下の情報政策を司り、45年12月31日に廃止された内閣情報局が、何を考え、新聞に何を求め、新聞がどう対応したか、事細かに記されている。


 いったん差し止め事項に違反すれば、新聞の発売禁止、最悪の場合、新聞発行停止、廃刊にもつながる厳しさのため、「検閲部員は火薬工場に働いているような気持で、責任の重大さを痛感している」という検閲部長の言葉。


 軍事面・政治面については大本営が検閲にたずさわったので、情報局の仕事は軍事問題を離れたあらゆる問題、外交、国際情勢に及ぶ。


 検閲指令は、「総動員法による禁止事項」約50件、内務省の「編集注意」約80件、治安関係の内務省差し止めが約20件の計160件。


 ほかに各種法令による指令があって、「がんじがらめ」の状態。


 「そのほか物資不足とか、配給不円滑に対する非難の記事とか、あるいは時局に対する不平、不満の記事、政府や地方当局者の措置に対する非難の記事、また時局犠牲者の窮状を刺激的に扱うというようなことは、すべてご遠慮願った方がよいものと思う」という検閲部長の声がある。


 この通りにしていたら、前の記事で紹介した情報局発行『写真週報』のような、イケイケ記事しか書けないことになりますね。


 ちなみに、「情報局検閲」とは「内務省検閲」と同じことです。


 1948年の12月24日、東条英機が処刑された翌日、裁判も行われずに釈放されたA級戦犯19名のうち7名が、岸信介を初めとする元内務官僚、情報局関係者だったと、田原総一朗が岸信介の評伝(『人物昭和史3 総力戦の人びと』でいっていると、ここでいわれています。


 


 

百姓はすごい!――ただのオオカミ遺伝子ではありません

 皇国史観の唱道者、平泉澄に「歴史がない」と決めつけられて豚と同列に置かれ、それを信奉するもの達の捨て石にされた「百姓」たち。



 ところが18、19世紀、江戸の経済システムの中で生産力を発展させていった百姓の中から、巨大な民衆運動が発生しているのです。



「文政六年一千七ヵ村国訴」とよばれるものがその代表で、摂津の国と河内国2ヵ国、合わせて1007ヵ村を代表して、50名の「惣代」(村役人)が郡と国の境界を越えて集まり、そろって大坂町奉行所へ、畿内の百姓が生産した綿花を自由に販売することを求めて訴え出ました。



 この時、幕府領と大名領、旗本領が入り交じった、その境界を越えて庄屋達が郡全体で集まり(郡中寄り合い)「郡中惣代」を選ぶ、あるいは領主ごとにそれぞれ「寄り合い」を開いて惣代(「惣代庄屋)を選ぶという2つの方法で、自分たちの代表およそ50人を大坂の寄り合いに送り出したのが1823年4月のこと。



 惣代によって運動戦略が発案されて地域によって異なる利害関係も巧みに調整され、1000ヵ村以上の村々の結束が持続されるなかで訴願項目がまとめられます。



 結果、7月には勝訴します。



 1854年(安政元)の国訴では摂津・河内1086ヵ村が連合して郡から選ばれた惣代たちが集まって、そこからさらに代表を選び、いわば惣代の惣代54名が訴願運動にあたりました。



 1864年には、摂津・河内の1262ヵ村の連合から惣代の惣代たちが3ヵ月にわたって訴願運動を展開。



 こうした国訴では、惣代には村々から「頼み証文」が差し出され、そこでいかなる問題が発生しようとも、村方が惣代とともに共同責任をとることを保証しています。





「頼み証文」にはかなりの額の惣代の必要経費まで規定して、惣代の立て替えに対しては「利息」まできちんと支払われましたから、見事な代議システムですよね。



 ついでにいいますと、一般的に持たれている「竹やり、むしろ旗」という百姓一揆は、どうも実際とはかけ離れていたようです。竹槍を持ったのはむしろ先の戦争中、というところがおもしろいところ。



 一揆参加者は、「あえて人命をそこなう得物はもたず」として、日常の農耕で使う鎌や鍬、鋤、鉈(なた)等を持ったといいます。つまり、江戸期を通じて百姓一揆は、けっして武装蜂起を意味したものではなかった、と研究者は言っています。



 すごいのは、天保の改革直前の1840年に庄内藩で起きた、三方領地替え反対の一揆です。



 3つの大名の領地を順送りに移し替える費用を押しつけられた百姓達が、各所で数万人規模の大集会(大寄)を開き、十数人から数十人の代表が江戸へ出て、幕府要人や藩主たちに直訴したのです。



 大寄合の参加は高札によって呼びかけられ、集まる際には、畑作物をむやみに踏み散らかすなとか、役人には雑言は言うな、等といった注意点が明確に定められていました。



 結局水野忠邦の反対はあったものの、翌年には三方領地替えは撤回され、一揆勢は軽い処分ですみました。



 まさに、百姓が幕府の転封政策に影響を及ばし、歴史をつくったわけです。



 この一揆については、その後一揆指導者の手で記録となる約80シーンの絵巻物『夢の浮橋』が作られていますから、当時のありさまを見ることができます。



 このときの一揆もよく統制の取れたもので、百姓は木綿や紙でできた村の旗の下に集まり、村ごとに参加していました。



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 ちょっと分かりにくいのですが、大かがり火の横にひときわ高い、先端にひょうたんを逆さにつけた棒が立っています。これが一揆の「目印の旗」。



 その他には「北晨」と書かれた大旗、大太鼓が見えます。別本にはホラ貝の持ち手も描かれているものがあるとか。



「目印の旗」が動くときは「惣つぼみ」で、一揆勢はまん中に集まってまとまる。「北晨の大旗」が動くと「人数繰り出し」で一揆勢は広がってゆく。法螺貝が鳴るときは、最初の場所にまとまる。大太鼓が鳴ると「鬨の声」、「ヤーヤー」をあげる。また、列を正しているときは、組々の旗の下にまとまる。



 真ん中の広場は「催合」といって、「大評議」(全体会議)を行い、村々から1~2名の代表者が大旗の下に集まるところ等々。



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 スローガンを記した旗も登場し、掛詞を巧みに使うなど機知に富み、デザイン化されています。



 左は、その中の1つで、西瓜の熟した絵が描かれています(「熟す」は方言で「すわる」といい、これにより、転封に反対する意を表しているそうです)。



 一揆勢が江戸で訴状を提出するのは、老中や奉行、藩主に対してですが、この時、籠にすがって行うので、「かご訴」と呼ばれ、これにも2、3人ずつ組になってするという「作法」がちゃんとありました。



 傑作なのは、かご訴をした大名・旗本からご馳走になることさえあったそうで、くりかえしかご訴を行ったにもかかわらず、罰せられたものはこの時ひとりもいなかったとか。



 いわば、合法的な一揆といえるのでしょう。目からうろこの江戸一揆像です。



 おまけに、当時、村役人たちが公用で奉行所に出張するときに利用した「郷宿」(ごうやど)では、訴願などの文書を作成する指導や代筆、奉行所への取り次ぎまでも仕事にし、料金も気安く依頼できる安いものでした。



 こうした民衆のエネルギー、英知を結集した百姓たちの高度に組織化された運動があったことは、百姓には歴史がないどころか、百姓自身が歴史をつくってきたことを示しています



 勝てば官軍で、江戸の政治と社会をことさら暗黒に描いたのは、明治新政府であったようです。その延長で、百姓もことさら暗愚に色づけされたかもしれません。



 また新政府をつくった、いわゆる「元勲」たちを輩出した西南雄藩は大きな家臣団を擁して民力を支配していましたから、江戸から明治へと時代が変わったとき、あたりまえのごとくその構図を持ち込んだことは十分考えられます。





 それにしても、大結集して自らの意思を権力側に訴えた民衆は、幕藩体制の崩壊後いつのまにか、知恵あるオオカミから牙を抜かれた従順なヒツジになったのはなぜでしょうか。



 大同団結して要求を貫こうとしていた民衆が、一人ひとりバラバラの帝国臣民となって帝国の支配システムの中に組み込まれてしまったのは、どうしてでしょうか。



 農民の力を結集した江戸の一揆の記憶は、秩父事件をはじめとする一連の騒擾、足尾銅山鉱毒事件あたりで途切れてしまいましたし、鉱毒事件の際の田中正造の天皇への直訴は、最後のかご訴と考えることもできます。



 秩父事件は、武装蜂起した点で江戸後期の合法的な体制内変革とは異なってきますが、事件の主人公たちは、蜂起の前に重ねて請願運動をしていたことを忘れてはいけないでしょう。



 合法的な解決の道を閉ざされて蜂起した民衆を圧倒的な力で抑えつけた明治の圧政は、江戸後期の幕藩体制を超える酷さで迫ってきます。



 いわゆる「仁政」を求めて決起した農民たちに、近代国家への脱皮を図る政府があくまでも契約や法律に則った姿勢を貫いたからです。



 また当時、調停手続きあたる「勧解」が、「身代限り」(今にいう破産)処分以上に行われていたという事実もあります。が、「富国強兵」を国是とする政府が、厳しい税負担を国民に強いたことは見逃せません。



 ことに秩父事件の起こる80年代は朝鮮を巡って清国とも対立が深まる一方で、ベトナムやカンボジアがフランスの保護下に入るなど、東アジアへの列強進出が露わになっていますから、民をさしおいても、強兵に力を入れたことでしょう。



 そしてこの強兵政策がその後の日本の対外侵略へと繋がりました。



 ところがその前に、まず軍隊は、国内の農民騒擾に出動しているわけです。軍備増強に重税を課せられ、その上鎮圧に兵力で臨まれては、農民は踏んだり蹴ったり、というところ。



 やはり、請願段階でなにか解決策を探るべきだったのではないか、前の時代のように借金棒引きとはいかなくとも、不況下で窮迫する農民に対する貸し金利子率を下げたり制限を設けたりするのは、人に武器を向けることにくらべたら実に簡単なことではないか、と思ってしまいます。



 勧解手続による「調和」(今でいう「和解」)がどこまで実施されていたのかは分かりませんが、とにかく農民たちは万策尽きて決起し、軍隊の力で鎮圧され、敗走後は厳罰が下されたわけです。



 せめて、警官隊と交戦する決起初期の段階で政府側が話し合いの姿勢を持って現場に直行していれば、事態は違う展開を迎えたのではないか、とついつい考えてしまいます。当時は同じような事件が後を絶たなかったため、そんなこといちいちしていられない、という声もあがりそうですが、それは政治の放棄というものでしょう。



 明治政府はこの戦闘で死亡したり負傷したりした軍人や警察官の処遇にあたって、これを西南の役に準ずる「戦争」として扱い、その戦況や結末の報告は大政大臣から明治天皇のもとにまで届けられたといいますから、もしかしたら
ヤスクニに祀られているのでしょうか。



 さて、手元を見ると、「障害者施設補助金」を「一律25%削減」の文字が新聞紙面に見えます。



 身体・知的・精神障害者の小規模通所授産施設などを対象とする、今年10月~来年3月の国庫補助金を一律に25%削減する方針を、厚生労働省が「事務連絡」で都道府県、政令指定都市、中核市に通知していたということです。



 国は自立支援法の施行に伴うものだ、といってますが、あれだけ多い批判に背を向けて粛々とこうした通知を送るのは、明治の暴政と大して違わないなあ、とため息。そもそも、自立支援法の前に、もっとすることがあったでしょうに。

 

 

インテリジェントデザインと皇国史観

 アメリカでは今でも進化論を巡る論争が続いていて、「インテリジェントデザイン」なるものを公立学校で進化論と一緒に教えるべきだという考えを支持する人たちが結構いると知ったときは驚いたものです。


 インテリジェントデザインの考えそのものも、私には奇異なものに思われます。それを大統領ジョージ・ブッシュまでが支持するというのですから、尋常ではありません。


 アメリカにおける論争については、中岡望の目からウロコのアメリカに詳しく書かれています。


 それによると、なんでも、J・スクープという高校教師が学校で進化論を教えたことで告発された有名な裁判が1925年にあったそうです。それだけでもびっくりしますが、当時テネシー州等には、神による創世を否定するような理論を教えることが禁止されていたと聞くと、よけい驚いてしまいます。


 そうした法律が、政府が国教を決めることを禁止した「憲法第1修正(First Amendment)に反していると、1人の教師が訴えを起こし、判決が確定したのが1968年。


 その結果、南部の学校でも、やっと正式に進化論を教えることができるようになったのです。


 そこで『聖書』の「創生記」をそのまま持ち出すことができなくなって困った人たちが、次は「科学的クリエーショニズム」なるものを考え出して、進化論と同等に学校で教える法律まで作ってしまいます。


 ところがその法律自体が憲法違反だ、ということになり、3度目の正直(?)で考え出されたのが、「インテリジェントデザイン」説です。


 「」という言葉を使わずに、「『何らかの知的存在』が生物進化を引きおこした」というこの考えには、さる京大名誉教授がはまっているということです。ちなみにこの方の専門は英米文学のようです。


 その上このID理論信奉者の先生は、あの統一教会の広告塔にもなっていて、産経新聞紙上でもその考えを披露していますが、その記事の締めくくりには、「進化論偏向は道徳教育にもマイナス 日本の識者も主張」というおまけまでついていました。産経新聞と統一協会は何か関係があるのでしょうか。


 なお、この日本の識者とは、作家・日本画家の出雲井晶氏、中川八洋筑波大教授です。


 ここまでくると思い出すのが、かつて一世を風靡した平泉澄の唱える皇国史観です。


 日本は、天照大神を皇祖とする万世一系の天皇が統治する国であるとするこの考えは、文部科学省所管公益法人日本学協会」に継承されているようです。


 昭和31年に設立されたこの団体の理事長は、平成15年の時点では金澤工業大学教授平泉隆房氏。理事をざっと見ると、水戸史学会副会長の肩書きも見えます。


 そうそう、幕末の尊皇攘夷の一大拠点が水戸で、桜田門外で大老井伊直弼を襲って殺害したのも水戸の浪士たちでしたね。なんだか、だんだんつながってきました。


 話題の「遊就館」に展示されているという人間魚雷「回天」を考案したのは、当時東京帝大の国史学科教授だった平泉澄に心酔した軍人で、平泉は人間魚雷案が軍上層部に採用されるように宮中に働きかけたといいます。


 学生の卒論テーマを聞いたとき、「百姓に歴史がありますか」、さらには「豚に歴史がありますか」と問いかけた、この平泉澄という人物は、ヨーロッパ留学を機に国粋主義を奉じるようになったとか。


 人を人とも見ずに、百姓を豚と同列に置くからこそ、人間魚雷の考えが出てくるのでしょう。もしかしたら彼の頭の中では、神-天皇、支配階層-人間、その他大勢の臣民は豚と同じ、と捉えられていたのかもしれません。


  天皇制を唯一のよりどころにして誇りを保つ。つまり、自らを神の国の臣民と位置づけ、神である天皇を仰ぎ見、豚にも比するその他多くの臣民の上に立つことで誇りを保つ。なんともやりきれない構図です。


 それに、表向きはけっして「豚」とは言わないところが、確信犯的。


 百姓には「歴史がない」と、こうも簡単に切り捨てられるとは、予想していませんでした。ちょっとショック。そうか、かつての歴史の勉強は、歴代天皇の名を覚えることでしたものね。


 海外を見れば、同時期フランスでは、名もなき人々の人口動態等から社会史を研究したアナール学派の誕生がみられます。そのうちのひとり、『歴史のための弁明』を著したマルク・ブロックがナチスの手で殺害されたのは1944年のことですが、この学派はその後の世界の歴史研究に大きな影響を与えることになりました。


 ただし私たちの国では、この名もなき人々が、コイズミ首相を何となく支持するB層とも重なり合うわけです。ますますやる切れなくなってきます。 


 いくら真剣に唱えられていようと、またそれだからこそかえって、インテリジェントデザイン説が私たちの目から見るとなんとも奇妙でおかしなものに思えるように、平泉史観ともいわれるこの皇国史観が日本中を席巻しているのを外から眺めたときは、さぞ怪しくまがまがしいものに思われたことでしょうね。


 平泉は、1954年、シンゾー氏の祖父岸信介に招かれて、自由党憲法調査会で激烈に自主憲法制定を主張をしています。


 インテリジェントデザイン説といい、平泉史観といい、まさにカルトの趣が感じられます。そしてこの両者に接点を持つのが安倍シンゾー氏なのでしょう。接点どころがズブズブともいわれていますね。


 


安倍→ヒットラー→安倍変身バナー

軍備増強と赤ちゃんの関係

_267 夏の定番ペチュニア。
 _270            
 いろいろあります。
 _271           
 他にも
_273  いろいろ。





 さて、昨日、おもしろいサイトを見つけました。


兵器生活」です。タイトルから軍事オタクのページかと思われたのですが、ちょっと違っていました。管理されている方は、戦前の雑誌等をいろいろ所蔵されていて、ただの軍事マニアではありません。


「戦時下の国策遂行コピー 続きの続き」に出した情報局発行『写真週報』の中の1ページがそのサイトに掲載されていました。43年5月5日号の「時の立て札」、例の「撃ちてしやまむ」の「時の立て札」です。


 同時に当時の雑誌掲載写真もあり、時の政府が考えた「無駄遣い」がよく分かって、私もお腹を抱えて笑ってしまいました。でも、笑い事ではありません


 この兵器生活の中の1ページ、「貯め抜く道は いくらでもある?」を読み進むにつれて、笑い顔がこわばってくるのが自分でもわかります。


 軍備増強にひたすら励めと鼓舞する時の政府は、「赤ちゃんも米英相手の兵器が欲しい。そこで出産の喜びを記念貯金にかえて20円宛奮発すれば」とまでいいながら、国民のさまざまな楽しみを無駄遣いだと断罪しているのですから。


 あかちゃんが兵器をほしがるか!? と、今から思えばナンセンス極まりないところですが、当時はそれが通用したのでしょうか。


 Sbshi134 貯蓄といえば、「貯蓄は銃後の義務だ」という新聞記事もありました。


「断然貯めぬかねばなりません」と、大日本婦人会の面々は決意を新たにしています。


 ワンフレーズとかモットーとかが声高に叫ばれるときには、ちょっと立ち止まって、目を凝らし、耳を傾け、よく考えるときだ、とあらためて心しようと思います。


 

まだまだ続く、戦時下国策遂行コピー

Photo_46  メドウセージ。藍色が美しい、観賞用のハーブです。


 さて、先日から伝える情報局発行の『写真週報』に掲載されたものが、戦時下日本の報道写真 梅本忠男写真集(全230点)に残っています。


 戦時中の生活については話しには聞いているものの、映像のなせる技か、ひとつひとつの写真を見ていくと、やはり驚きを禁じ得ません。中には哀れさえ感じるものまであります。当の本人たちは真剣だったのでしょうが。


 竹槍模範演技を笑ってはいけません。まさに、かつてのこの国の現実だったのですから。兵士の葬儀の写真には、思わず息をのんでしまいました。そしてかくも盛大な兵士の遺骨の出迎えをみると、戦没者の過半数が戦闘行動による死者、いわゆる名誉の戦死ではなく、餓死であったという事実を思い出して、もっと複雑な気持ちになります。


 では、1943年6月16日号の『写真週報』の「時の立て札」より。


 Sbshi12 その前の月、北太平洋、アリューシャン列島の西端部、ニア諸島の火山島アッツで、2,500名の日本軍守備隊が全滅したばかりでした。


  戦局はいよいよ苛烈である
   ガダルカナル アッツ
  敵反攻の鋭鋒いづこを狙ふとも
  我に不動の戦略態勢あり
   ガダルカナル アッツ
  玉砕せる殉国の雄魂に報ひんと
  悲憤心魂に徹し
  我ら一億今戦線にあり


 ヨーロッパ戦線では、9月にはイタリアが無条件降伏して、枢軸国の一角が崩れ、国内では女子勤労動員の強化と学徒出陣が実施され、「一億総戦闘配置につけ!」の叫びが聞こえてきます。


  塹壕に絹夜具を持ち込み
  飯盒に刺身を盛り
  長袖をひらめかせて
  突撃できようか
  戦局はまさに捷愴苛烈
  国内もまた 戦場
  虚飾を抛って決戦に
  一億総蹶起の時は今
  野戦の心もて貫かん
  我らが衣・食・住
      (7月7日号)


  防空必勝の誓い
  一、私達は「御国を守る戦士」です命を投げ出して持ち場を守ります
  一、私達は必勝の信念を持って最後まで戦ひ抜きます
  一、私達は準備を完全にし自信のつくまで訓練を積みます
  一、私達は命令に服従し勝手な行動を慎みます
  一、私達は互いに扶け合ひ力を協せて防空に当たります
                             (8月4日号)


 贅沢は敵だ、お嫁に行くときゃもんぺ姿、という言葉はいつ頃からいわれたものでしょうか。絹の夜具だ、刺身だ等、とうの昔におとぎ話になっていたでしょうに、何を今更。でも、当時の人たちは、真面目に本気で防空必勝の誓いをしたのでしょうね。


 なお、梅本忠男写真集の中に、「遠山満を訪ねた幼年学校生徒」とあるのは「頭山満」の間違いだと思います。

日中は歴史にどう向き合うか

Photo_45 なぜか、枇杷の木にはアブラゼミが、この金木犀の木にはクマゼミが来ます。
 _282          蝉にも好みの木があるのでしょうか。


 先だって来話題になっていた《富田メモ》の報道になんとなく違和感を感じていたところ、先日、高橋哲哉さんが首相の靖国参拝に関連して、明確にご自身の講演で発言されたようですね。


 「宮内庁長官メモの報道以来、『昭和天皇ですらA級戦犯が合祀された靖国に行かなかった。小泉首相も行くべきでない』という議論がある。首相の参拝は、まず憲法の政教分離の問題から指摘すべきで、憲法より天皇のことばに権威があるかのような報道は問題だ」と指摘されたとのこと。


 時はすでにこの問題を通り過ぎて先へと行ってしまいましたが、やはり大切なことですから、ここに書きとめておきます。


 車の中で聞いたニュースでは、 レバノン・イスラエル問題でフランスが鮮やかなお手並みを見せてくれたようです。なんでも、シラク大統領と暗殺されたハリリ前レバノン首相は親しい間柄だったとか。


 日本の政治家たちも、もっと外交問題に熟達して貰いたいものです。


 さて、先日のNHKスペシャル、「日中は歴史にどう向き合うか」のうち、後半の討論を除いたメモを、ここに残しておきます。


 1952年に、台湾の国民政府との間で結ばれた日華平和条約で、日本は戦争責任を問われず、賠償も求められなかった


 これにはアメリカの意向が強く働いていたが、東京裁判の途中で中華人民共和国とソビエト連邦に対する反共の砦として日本を位置づけるという、対日政策の転換があったためである。


 条約締結を優先し、中国代表として台湾と平和条約結んだことが、その後の日本と中国の関係を複雑にする大きな要因になった。


 この時中華人民共和国は、国民政府を中国の代表とすることは認められないという声明を出した。


(小学館『スーパーニッポニカ』によれば、中華人民共和国ではなく国民政府と締結したのは、アメリカとの占領中の密約による)


 中国は、1950年代初めから、国交正常化へ向けて動いていた。


 朝鮮半島で中国はアメリカと戦い、アメリカ第7艦隊は台湾に駐留していた。


 アメリカの中国封じ込め作戦に対抗するため、中国は日本との関係を重視し、毛沢東と周恩来との間で大原則を決める。


 この大原則が、少数の軍国主義者と大勢の日本人を区別した、「二分論である。


 中国は日本の軍国主義の復活を抑えるのが大切として、この二分論を日本に向けても繰り返し伝える。


 1953年の日本の国会議員との会見で中国は、日本の軍国主義者の起こした戦争は、莫大な損害を中国とアジアの人々に与えた。が、中国は軍国主義者と日本国民を区別することができる、といっている。


 1956年、中国は拘留していた戦犯を釈放した。


 当時、一握りの軍国主義者に対して多くの日本国民は被害者であるという二分論に基づき戦争責任を放棄することは、かなり早い段階で決められていた。


 中国は国交正常化へ向けての布石の手を着々とうっていた。


 1971年、中米国交樹立に向けての周恩来・キッシンジャー秘密会談が行われた。


 この時、日本の経済発展は軍事力拡大に繋がると、日本の再軍備・再軍国主義化を中国はとても警戒していた


 中国との国交正常化の公約を掲げた田中角栄が首相の座に就き、大平正芳が外相になったとき、日華平和条約の破棄を中国が求めていたことから、外務省は大きな課題があると考えていた。


 1972年、田中角栄首相が訪中の際、日本の戦争責任について深い反省の念を述べたとき、田中が「ご迷惑」という言葉を使ったため、中国側の反発を呼んだ。がこれは、日本が十分考えた末の言葉だった。


 そして日本の戦争責任の問題は、大平-姫鵬飛外相会談の場に移る。


 この時中国は、共同声明で「軍国主義」という文言を求めて、日本の責任をあきらかにしようとした。


 結局、車中での非公式会談等3階の外相会談を経て、1972年9月、「日中共同声明が出された。


(この中で日本の戦争責任については、「日本側は、過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と表現されています)


 中国政府は国民へ、多くの日本国民は侵略戦争の被害者であるといって、二分論を用いた「説得教育」を始める。


 一方日本側は、二分論を中国国内での論理と受けとめていた


 この日中間のズレが、80年代に表面化する。


 1985年の中曽根総理の靖国公式参拝である。当時の駐中大使は、中国の反発は予想外だったと証言。


 この時大使は胡耀邦総書記と会談し、中国の反発は、二分論を重要視しているからだと気づく。


 1995年の村山談話では、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」と言及。


 江沢民の愛国主義教育では、子供たちへの日中戦争に対する教育が強化された。


 小渕総理は村山談話を踏襲する形で、口頭で「お詫び」をしている。


 中国は、二分論の大原則を主張し続けている。


 以上番組から。


 二分論については、その名称こそ知らなかったものの、父から聞いておりました。


 また、中国側が賠償を求めなかったのは、第1次大戦後にドイツに課せられた莫大な賠償金問題が結局はナチス台頭につながったことを考慮したためだと、どこかで聞いた覚えがあります。


 

日中戦争~なぜ戦争は拡大したのか

 13日のNHKスペシャル:「日中戦争~なぜ戦争は拡大したのか」を見ました。


 廬溝橋事件発生当初の不拡大方針にもかかわらず、戦線は欧米をも巻き込んだ世界戦争へと突き進んでいく。この国の指導者たちの甘い見通しに、またしても嘆息。


 客観的な根拠なしに、己の希望的観測から予測を誤る。はたして今は大丈夫なのでしょうか。


 番組の概要を、備忘録として記しておきます。


 69年前の1937年7月7日、日中戦争の始まりとなり、日本の国際的孤立を深めた軍事衝突が、北京郊外の廬溝橋一帯で起った。


 当時の国民党指導者、蒋介石の日記には、多くの国々に日本への経済制裁をとらせようとしたことが書かれ、前年日本と防共協定を結んだドイツは、日本とは友好な関係を維持し、中国への武器輸出は続けるという、日中両国と複雑な関係を結んでいた。


 現地軍司令官、松井石根(まついいわね)の日記からは、中国軍恐るるに足らずと信じ、負けるという感覚がなかったこと、中国軍は烏合の衆と考えていたことがうかがえる。


 金沢を本拠地とする第9師団は、日中戦争出兵当時2万2千の兵力を擁し、開戦後2ヵ月で上海に上陸。南京攻略にも参加。


 92歳の元兵士の証言:昭和12(1937)年9月27日、上海上陸。視界内のものすべて壊滅。敵の屍が続き、血の腐敗した悪臭が鼻をつく。


 廬溝橋事件に対する日本の対応をみると、当時の総理大臣近衛文麿は、満州の日本軍がソ連と対峙していたという事情を抱え、不拡大方針をとった。


 が、陸軍参謀本部の中には「対支一撃論」を唱えて参戦を求めるものがいた。


 対支一撃論とは、満州事変の際の蒋介石率いる国民党の堕落、党員の腐敗を見て、
中国は四分五裂して国家の体をなしていないと分析し、3~5個師団を投入して一撃すれば、中国側はぱっと矛を収めるに違いないという考え。


 が、軍の立て直しを図っていた蒋介石は、事件の起こった翌日の7月8日、日本の侵略者は、我が軍の準備が完了していないと見て、屈服させる気か。我が軍は今こそ徹底抗戦をする、と日記に書き、その後毎日、日本に奪われた国土を奪還し雪辱を果たす決意を示して、「雪恥(雪辱のこと)」の2文字を記している。


 当時上海で居留民保護を目的とする日本軍兵士は5,000人。そこへ陸軍は10万の兵士を送り、戦火は一気に拡大する。


 中国軍が予想を上回る強力な武器を持っていたたことから、10月の日本側兵士存亡率は53%であった。命中精度が高く、当時世界最高峰といわれていたチェコ製のZB26軽機関銃である。


 当時ドイツは最新鋭の兵器を中国に輸出すると同時に、30人の軍事顧問団を蒋介石のもとに送っていた。その代表者ファルケンハウゼンは、中国兵の士気は高く、徹底抗戦の構えは整っている、と記録している。


 このときのヒトラーの意思は、前述の通り、友好国日本との協調関係を維持し、その一方で中国への武器輸出は続けるというもので、装甲車、戦闘機等を大量に中国に輸出していた。廬溝橋事件当時の輸出量は、前年の3倍にのぼっていた。また、ファルケンハウゼン等は中国軍に軍事訓練をも施していた。


 中国側は防御陣地を築き、国際都市上海で戦いが始まれば、国際的関心を引くと判断。


 上海での戦いは激戦だった。ファルケンハウゼンに学んだ中国軍は徹底抗戦を極め、金沢の第9師団は、1ヵ月で1万の兵力を失う。


 元兵士は陣中日記で、共に出征した幼なじみのことを心配していた。


  畑中伍長はどうしているかね? と尋ねると、頭部貫通銃創で死亡しました、という返事。胸も張り裂けんばかりであった。


 こうして暴支膺懲(ぼうしようちょう:「中国を懲らしめる」の意)の声が高まり、兵士たちは敵愾心を募らせていく。


 10月20日、東京の参謀本部は大規模な増員派兵を決めたが、戦域を上海に制限して制令線を引いた。


 日本は、国際法上の戦争にはしたくない、という気持を持っていた。


 戦争になると、「中立法」が存在するアメリカから、武器調達ができなくなることを恐れたためであり、ついに日本は、中国に対して宣戦布告をすることがなかった。


 日本は7万の増員派兵を行う。


 その時、ベルギー、ブリュッセルでは国際会議が開かれるところで、蒋介石は欧米の国々に働きかけて、日本への経済制裁を求めようとした。


 欧米メディアは、激戦の様子を本国へ映像で知らせた。


 蒋介石は、激戦地、四行倉庫の死守を命じる。が、同戦闘は4日間で終わり、ドイツ式精鋭部隊は失われ、11月のブリュッセルでの国際会議も、蒋介石の期待はずれで終わってしまう。


 11月上旬、上海陥落。


 脱走する中国兵追撃の命令を出して、松井石根はさらなる戦線拡大を目指した。 


 11月22日、日本軍は制令線を越えて南京に向かう追撃は可能かと参謀本部に打電。参謀本部は現地軍の独走に歯止めをかけようとしたが、中に現地軍と密かに通じたものがいた。


 そのうちのひとり、下村定中将が独断で、軍上層部は追撃を目指しているように天皇に上奏して発覚したが、罪は問われずにすむ。これを見て現地軍は独断で南京追撃に走る。


 ついに12月1日、軍上層部は南京攻略を命令。日中の戦いはなし崩しに全面戦争へと発展


 蒋介石は国際社会の新たな支援を求め、南京を死守しながら挽回の方策を講じる。


 当時、ソ連が中国に、飛行機、大砲等の武器の供与をしていてが、蒋介石は、スターリンにソ連軍の出兵を電報で促した。


 12月上旬、南京付近で大規模な戦闘があった。


 12月5日にソ連から回答がきたが、それは2ヵ月後の会議で出兵の承認を得る必要のあることを伝えるのみであった。ソ連はこの時、欧州でのドイツの動きに神経を使っていたのだ。


 12月7日、防衛軍10万を残して蒋介石は南京を出る。


 10日、日本軍南京への総攻撃を開始。司令長官が逃亡したため、残った中国軍は大混乱に陥り、3日後に陥落。


 民間人の服に着替えた中国兵が南京城内に潜んでいると考えた日本軍は、「老人と幼児以外のすべての男子を逮捕・監禁すべし」という城内掃討の命令を出す。


 当時国際社会の管理下にあった難民区内も作戦の対象になった。


 日本は、捕虜の人道的扱いを求めるハーグ陸戦法規を批准していたが、宣戦布告のない日中戦争において、この法規をことごとく適用するのは適当ではないとし、また「捕虜」という名称はつとめて使用を避けよ、と命令。


 皇族も含めた南京入場記念式典を2日後に控えて、歩兵第7連隊に掃討命令が出されたが、この時はもはや「逮捕・監禁」ではなく、「捕捉・殲滅」命令で、作戦は12日間にわたって続いた。公式記録では6,670人が殺されたことになっている(この部分、コメントで「1つの連隊が12日間で6670人殺したって言う軍事記録です」と指摘されました)。


 12月16日、若者を5人位ずつ縛って揚子江に連行し銃殺したと、92歳の元兵士は証言した。 


 首都を落とせば中国は屈服すると日本は考え、また国内は戦勝ムードに沸き立っていた。


 このとき近衛首相は、今後、中国国民党政府を相手にせず、と宣言して対話の可能性を摘んでしまう


 一方蒋介石は、首都を重慶に移して、徹底抗戦の構えを見せた


 南京陥落は多くの外国人に目撃されている。


 1938年、ドイツの外交官ゲオルクローゼンが、アメリカ人宣教師ジョン・マギーの撮ったフィルムをドイツに持ち帰る。現在ドイツでこのフィルムは見つかっていないが、コピーが複数あってアメリカに渡り、教会等で繰り返し上映された。


 蒋介石は、毎月10万ドルの宣伝費用を使うべきだとも言い、アメリカ社会への働きがけを強める。


 1938年、アメリカは日本との貿易を制限する政策をとり始める。


 以上、番組から。


 なお、南京陥落の際の虐殺について、元日本軍特務機関員の中谷孝さんの証言が日刊ベリタに載っていました。一度お読みになることを、おすすめいたします。

とんでも改革と打ち出の小づち

_200 擬宝珠の花芽です。


 昨日に引き続き、貞子ちゃんにいろいろ教えてもらいました。


 今日は「特別会計」について。


 特別会計という一般会計とは別立ての会計があって、それが一般会計の何倍にも上り、どうも《あやしい所》に使われているらしい、というくらいの知識(といえるかどうか、怪しい)しか持ち合わせていなかった私ですが、その昔、「財政投融資金」といってたものだと貞子ちゃんの所で知りました。


 その言葉なら聞いたことある。


 郵貯・簡保・年金で集められたお金のことです。


 そして貞子ちゃんによれば、80年代初頭では、「第1の予算」一般会計は50兆前後、「第2の予算」財政投融資金もおよそ50兆前後で、年間の国家予算全体は、あわせておよそ100兆円で推移していた、ということですし、「財投債」などという国債も考案されていなかったといいます。


 以下は貞子ちゃんから学んだことです。


 この四半世紀の間に、「一般会計」は80兆前後に膨らみ、「財政投融資金」は「特別会計」と名前を変え、およそ240兆円にまでなってしまった。 


 2001年4月に行政改革に関する「まやかしの法改正」がたくさんあり、大蔵省が廃止されて、金融庁と財務省が誕生すると同時に『財政投融資金』が廃止されて『財政資金特別会計』を中核とする『特別会計』が生まれた。


 新たに「財投債・財投機関債・政府保証債」という3つの名前の国債が発行され、「特別会計」の「財投資金特別会計」へと流れる。 


  さらに 『特別会計』には、郵貯・簡保・国民年金・厚生年金・雇用保険・地震保険・船舶保険・ガソリン税(ガソリンの内税)・電源開発促進税(電気代の内税)・印紙税などなど 広く浅く国民から集めたお金が大量に流れ込み、それが各種特殊法人・公益法人へと支出されている。


 こうした変革に、日経をはじめとしたマスメディアがついていけてない。


 2004年に国債発行高30兆円の公約を達成したかのように報道されていたが、同じ年度に、「財投債」という国債を41.3兆円発行していた。


そして日本の国債発行残高は、今年に入っても増え続けている。


 以上、貞子ちゃんから教えてもらったことでした。


もう一度、橋本政権下での行財政改革と、小泉政権下でのそれをきちんと調べ直してみないと分からないことが多いなあ、と思いましたが、


「誰か再び 橋本龍太郎並みの気骨ある政治家が登場するでしょうか。
私は 麻生さんあたりが 少しは気骨がありそうだと個人的はにらんでいます。21世紀の政治家は 少しくらいは悪人顔でないと なんとも心もとないのである」。


という貞子ちゃんの言葉に私の方は絶句。


 金融関係で数字を扱っている感覚と、その数字の下ではどのような生活が営まれているのか考えるものの持つ感覚はこうも違うのでしょうか。


 貞子ちゃんも、フローッピー麻生のエピソードを知れば、「少しは気骨がありそうだ」などというものが思い過ごしだったことを知るかもしれません。


 (麻生太郎氏は2003年の講演で、「IT技術の発達で05年までに日本の役所から書類がなくなり、すべてはフロッピーで済むシステムになる。世界でもっとも電子化された政府が誕生する。国土が狭い日本が光ファイバーの整備で米国に負けることはない」といって話題になりました)。


 なまの生活実感、ごく素人の「おかしい」という感覚は、金融や経済の桁違いの数字を扱っていると抜けていくのでしょうか。


 それにしても、やはり詐欺にあったとしかいいようがない「まやかしの改革」 。これは私の感覚のみならず、貞子ちゃんの話しでも裏付けられたわけですね。


「日本政府が去る2003年1月~2004年3月までの15ヶ月間に総額35兆2564億円に及ぶ「円高」阻止名目での史上空前の為替介入(円売ドル買)を行ったことを忘れるべきでありません。政府は、このために必要な円資金をFB財務省短期証券/13週で償還する超短期国債)を発行し、それを銀行等の市中金融機関へ売却して調達しました」


と、toxandoriaさんがいわれていますが、この国債も、貞子ちゃんのいう「財投資金特別会計」に流れ込むもののひとつなのでしょうか?


 行財政改革に名を借りたとんでも改悪で、私たちは時の政権に、とんでもない「打ち出の小づちを与えてしまったのでしょうか。


 

安倍シンパ記者たちの「無念の思い」とは

_257 まだつぼみが多いのですが、きんかんの花が咲いてます。かぼすには、すでにピンポン球より大きな実がなっています。
_255

 久しぶりに、『選択』を覗いてみると、「『安倍丸』船長の憂いは深い」というタイトルで、晋三氏には現首相のようなブレーンがいないことが書かれていました。



 晋三氏そのものが自民党人材枯渇の象徴のような人ですから、そんな人の下にブレーンが集まるわけないよ、とは思いましたが。



選択』といえば、晋三氏から記事内容に関して訴訟攻勢をかけられていることは森田実さんも、毒蛇山荘日記の山崎行太郎さんも触れられていましたね。



なんでも、「裁判の過程で強く感じたことは、安倍氏側のメディアに対する挑戦的高圧的な姿勢です。全国紙での謝罪を本気でやらせようというのですから尋常ではありません。最近の安倍氏関連記事に対する抗議文も「まだ懲りないのか」といわんばかりの脅迫まがいです」ということです。
 
 メディアの記事のひとつひとつに神経をとがらしているのでしょうか。そしてその対応も、執拗、高圧的ではアベ晋三という人物の卑小さがますます際立つというものです。

 で、その『選択』8月号によると、安倍氏が次期首相になることが、「戦わずして決まってしまった」ような状態でも、「安倍陣営に沸き立つような勝利感はない」らしい。「『泡沫候補』を相手にした消化試合に勝ったとしても求心力が高まらない」ということらしいのです。

 おまけに、「
優れた側近や、内外の政策課題に精通し的確なアドバイスをするブレーンが、現時点で安倍氏にはいない」という事情も抱えているようです。

 まあ、そんな記事は置いておき、私が気になったのは、「報道各社の上層部に『安倍シンパ』」勢力が多い、という部分です。

 
「安倍シンパ」とは、「かつての清和会(現・森派)担当記者」のことで、清和会は1978年から22年間にわたって政権が取れずに、「担当者は社内で『冷や飯』を食わされる状態が続いた」。そのために、総理目前にしてガンで死去した晋三氏の父親晋太郎氏の「無念の思い」を当時の担当記者たちが共有しているのだということです。

晋太郎没後十五年を経ても、命日の五月十五日の前後に清和会担当者OBを中心とした偲ぶ会が開かれ、毎回顔をみせる息子である晋三氏をなんとか総理に、という空気が醸成されている。」と『選択』は伝えています。

 よく分かりませんが、人情というのでしょうか、仁義とでもいうのでしょうか。政治担当記者の間も、こんな浪花節的精神が横溢しているのでしょうか。

 メディアの晋三氏ヨイショ記事の原因も、電通と合わせて、そのあたりにもあるのでしょうか。

 さすがに近頃は、コイズミ「改革」から生まれた格差社会の問題に関する記事が新聞にも多くなったと思っていましたが、これはあくまでも、晋三氏の
「再チャレンジ支援策」をなどを盛り込んだ政権構想発表の「露払いに過ぎないのでしょうか。

 安倍シンパ議員版「自民党再チャレンジ推進議員連盟名簿」はこちら。



戦時下の国策遂行コピー 続きの続き

Photo_42 朝起きたら、ビワの幹に蝉が9匹も。1匹はクマゼミで、残りはアブラゼミです。一番上の端にいるアブラゼミにカマキリが忍び寄ります。



 獲物を狙う猫がお尻を左右に振るように、カマキリは体を横に揺すり……飛びかかりました……が、危ういところで蝉は飛び立ち、難を逃れます。



 
          後にはカマキPhoto_44リが残りました。



  今日は、戦時下の国策遂行コピー、太平洋での制空権が完全にアメリカに移り、悲壮感さえ漂うコピーから。


  一点の衣、一椀の粥
  総てが国力である時
  暖衣飽食は
  自らの国を引き裂いて着
  自らの国を引きちぎって喰ひ
  遂に船底まで剥ぎ取って
  諸共、海底に没入するの愚だ
         (43年1月13日号)



 これを読むと、何かおかしいな、と感じます。なにか、現実とすでに逆転しているからでしょうか。



 41年12月の開戦から3ヵ月ほどたつ42年2月には、すでに衣料品を手に入れるのには切符が必要になっていました。食料の配給制が始まるのも、そう遅い時期ではなかったはず(42年には主食の米等は、1日分2合3勺(345g)になっていて、やがて配給米の中に麦やサツマイモが米の代わりに加えられ、副食物までは配給制になっていき、遅配・欠配も多くなっていくわけです)。



 そうした国民生活の窮乏をみていて、「暖衣飽食」とはよくいえたものだとびっくりします。贅沢をするものは自らの国を食して諸共に沈没するものだ、という言葉を読むと、「痛みに耐えて改革を成し遂げなければならない」という首相の言葉を思い出しませんか。



 耐えてきたのに、まだまだ耐え足りない、というのは小泉改革と同じですね。



 折りしも竹中氏は訪米中の8月4日、ポスト小泉政権の政策運営について「改革は続くのか」「(引き続き)首相がリーダーシップを発揮するのか」などの質問が相次いで、「改革を続けないと日本経済は基本的には駄目になる」などと答えたといいます。



 要求の際限なさは、すでに戦時中と同じ。





 43年3月10日の陸軍記念日に、有名な「撃ちてし止まむ」の標語が発表されます。



 そして



  制服から作業衣へ
  諸君は日本の
  戦車を軍艦を飛行機を造る逞しい少年工になった
  諸君が得る収入は
  国家が支払うお金です
  良くないことに使っては
  君たちをゆがめ 國をむしばむ
  二重の罪悪です
              (4月14日号)



  わが蓄めしいささかの金
  けふも鋼鉄の艦となり
  南海の敵を撃つ
  わが積みしそこばくの金 
  けふも銀翼となり
  大東亜の空に飛び立つ
  撃ちてしやまむ
  この暮らしなおゆとりあり
  否、この暮らしゆとりなくとも
           (5月5日号)



 ふー、ここまでいうとは想像できませんでした。43年5月の言葉です……45年8月まで、2年以上もあるというのに。



「この暮らしなおゆとりあり」といったそばから「否、この暮らしゆとりなくとも」と否定しているのは、国民の窮乏をちゃんと知っているわけです。それでもですからね。



 いったい、日本はどうなってしまうの、というより、これ以上国家への奉仕を要求して、日本人の暮らしはどうなってしまうのかと、読むだけで不安になります。実際のむごさはどんなものだったでしょうか。



 少年工の賃金も、「良くないことに使っては、君たちをゆがめ 國をむしばむ」といってどこに使われたか!



 この43年の秋には軍需省が創設され、44年1月から軍需会社の指定を行い、さらには一般鉱工業生産を犠牲にしてでも、徹底的な航空機第一主義に集中せざるを得なくなるのです。そしてその航空機は何に使われたか!



 この方が「二重の罪悪」でしょう。









 

 



戦時下の国策遂行コピー 続き

 ミッドウェー海戦の惨敗の後は、ガダルカナルの撤退、ニューギニア、ポートモスレビー作戦失敗とつづき、42年6月10日号で「もつともつと、人が要るのだ」といわれたように、「人的資源」補充のために中学、高専、大学は卒業を半年繰り上げ、そこに航空少年兵募集の叫びが高鳴ります。



 42年8月5日号『写真週報』の「時の立て札」より



  地を蹴りて隼は空に征き
  遂に帰らず
  南溟の虚空高く
  雄魂は神と帰したり
  己の死灰の中から甦り飛び立つといふ
  不死鳥のやうに
  その英魂から生まれ羽ばたく幾万の
  護国の隼のあることを信じよう
  死せず 荒鷲死せず



 ここにいう「隼(はやぶさ)」とは、wikipediaによると、零戦についで2番目に多い生産数を誇る、太平洋戦争前半における主力戦闘機。



 この詩は、ベンガル湾で5月10日に戦死した加藤建夫飛行第64戦隊町のことを謳ったもので、何でもこの人は、海軍の「九軍神」に対抗すべく、陸軍で軍神に祭り上げられた人のようです。詳しいことはここにあります。



 「雄魂」「英魂」「神」「不死鳥」「荒鷲」……人の心情をかき立てるような「熱い」言葉が続きますね。なんだか、今でもこうした言葉に意を決してしまう人もいそうです。



 この「時の立て札」に「欲しがりません勝つまでは」の標語が登場したのは11月だったといいます。その頃の詩とでもいえそうなコピー。



  なかなかに君は頑健そうだな
  真珠湾に散った九軍神も
  かつては、君のやうな青年だった
  やれるさ
  君にだって
  軍艦旗が、君を招いて 潮風にはためいてゐるぞ
                      (11月4日号)



 大衆にアピールするのには、「軍神」も必要だったのでしょう。そんな、人々の崇敬の眼差しが注がれる軍神に、君だってなれるさ、とささやく。なんとも巧妙な。



 時々、上場前の株を買え、とかいろいろ儲けをさそう電話がかかってきます。今は電話機に着信拒否の機能がありますからそこへ登録すればいいだけの話しですが、以前はよく、そんなに儲かるのなら、うちなどに勧めずにご自分で買われるのが一番でしょう、などと夫が答えていたものです。



 ほんとうに、そんなにいいものなら、ご自分がまず率先して軍艦に乗ったらいいですよね。

 

                         

とくらさん、参院選へ

 とくらさんの参院選立候補が内定しました! 民主党の公認候補です。



 去年の9.11選挙で衝撃を受けて、少々逡巡の末、結局、小泉・竹中政治反対を言いたくてブログを始めた私です。



 その前から、郵政民営化反対をキーワードにして検索を続けて色々な人のブログを読んでいましたから、とくらさんを知ったのは、昨年夏。



 ふたりきりのオフ会で初めてお会いしたのが3月末のこと。ブログそのままのお人柄でした。お玉さんの言う如く、「ぽよっとかわいいお姿で、何気に手厳しいご意見を発」する一方で、 曇のない目でものごとを真っ直ぐに見て、偉ぶりも構えもしない、とても正直な人。



 少し迷われたみたいですが、決意された様子でしたから楽しみにしておりました。



 来年は、お玉さんと連れだって、山口県まで選挙運動を手伝いに行きます。もちろん、手弁当ですから、旅費と宿泊費をこれから貯めます。



(まちがって、下書き途中で公開してしまいました。気づいたときはすでにココログのメンテナンス中。やっと続きを書けました。)

ホロコーストの闇

_149 _150_1 ラムズイアー。子羊の耳の意を持つこのハーブ、可愛らしいピンクの花が咲きますが、びっしりと産毛のような白い毛が生えた柔らかい葉っぱは、さわるとほんわり柔らかくて、癒されます。



 政府と政権与党の横暴に腹の立つあまり、とりあえず邸の麗子嬢とゆっくりお茶を飲む暇もゆとりもない方々は、是非身近に置くことをお薦め致します。



 先日から、東ヨーロッパの小さな町で起こったホロコーストを取材した本を読んでいます。かなりなボリュームで、原書ですから、少々時間がかかり、ブログの更新内容を考えるゆとりがありません。もちろん、麗子嬢やばあやとの楽しいお茶の時間は後まわし。



 とても重たい本です。(もちろん、重量のことではありません)。



 言葉をなくすとか胸が突かれるとかいう言葉だけでは、とても言い表せないほどの衝撃です。ホロコーストといえば、日本ではアンネの日記とかアウシュビッツを思い浮かべますが、息を潜めた隠れ家生活の日常や絶滅収容所での体験とは違う、ポーランドやウクライナ各地の町や村でおこった大小さまざまなユダヤ人虐殺の実態が、家族の歴史と共に描かれています。



 虐殺そのものも、あまりにすさまじく、当分の間私の頭から去りそうにもありませんが、その殺戮が、ドイツ・ゲシュタポのみならず、その協力者、昨日まで隣人として共に生活をしてきた人々の手によって行われたことに、また違った恐怖と衝撃を味わいます。



 日本でも、沖縄戦の最中、壕に逃げ込んだ若い母親が、泣いている赤ん坊の口を塞いで窒息死させた話を聞きますが、ちょうど同じようなことが、ゲシュタポがユダヤ人探索をするときにも出てきます。



 でもそれよりもおそろしかったのは、そうした探索の最中に、お産を迎えた妊婦の話でした。



 周囲にいる人の懇願空しく産気づいた女性が広場に引きずられていく。陣痛が始まると、そこにある大きなゴミ箱の上に引っ張り上げられ、お産の痛みに苦しむ姿が群衆にさらされる。それを見つめる人々は、冗談を言いあい、罵声を浴びせる。子供が生まれるや、赤ん坊は臍の緒のついたまま、すぐさま母親の腕からもぎとられ、群衆の中に投げ飛ばされる。人々は生まれたてのその赤ん坊を踏みつける……母親は血を垂らしながら、数時間その場に立ちつくす。そして駅へと引っ立てられていき、絶滅収容所行きの貨物列車に詰め込まれる……



 20世紀に入ってからも、フランスでは公開処刑が行われていたことを、カミュか誰かが書いていました。普通の市民が、今日はギロチンだ、という日、喜々として処刑が行われる広場に駆けつけるわけです。



 おまけに東ヨーロッパでは、20世紀になっても、ときどきユダヤ人の住まいが襲撃されるポグロムが起こっていました。社会不安のはけ口だったのでしょう。



 国家保安部長ラインハルト・ハイドリッヒという人物が、この東ヨーロッパのホロコーストの指揮を執ったのですが、実際に手を下したのは、ゲシュタポのみならずこうした普通の人々でした。もちろん、中には絶滅収容所行きトラック(ユダヤ人輸送には、列車だけでなく、家畜運搬用のトラックも使用されました)から逃げ出した人を救ったり、パルチザンになってユダヤ人と共に闘った人は、少数ですがおりました。



 でも、昨日まで、平和に暮らしていた隣人が、こうして牙をむくことがあるのは、旧ユーゴスラビアでのボスニア・ヘルツェゴビナの内戦でも顕著に見られたことでした。



(あああ、頭の中がいっぱいでうまくまとまりません。今日はここまで)





競争の中の敗者

_235
 毎日、せみ時雨の中で目覚めます。
                 
 _240

あっちの木にも、こっちの樹にも、かるく5、6匹はいるでしょうか。



 下の写真の中央部、幹の左側にはクマゼミもとまっています。



 さて、いつか、「人類には《適正人口》というものがあるんです。だから人間は戦争をするんですよ」といった高校生がおりました。多分、誰かの意見の受け売りでしょうが。



 もちろん、彼は、適正人口の考え方からする《余剰人口》のうちには自分自身は入れていないわけです。昨日のエントリーにある「傲慢な若者」のうちの1人です。



 彼は「競争」を、生存競争と捉えていました。「弱いもの」がこの世から退場していくのは当然で、生物の宿命だ、というその論は、ナチスの似非生物学を思い起こします。



 中・高校生の心をとらえたこうした論法がいまだ健在というより、命を吹き返して若い人に働きがけているのにびっくり仰天した私ですが、たやすくそんな論を受け容れてしまう危うさはどこからくるものなのか、しばし考え込んでしまいました。



 エリートになるように教え込まれ仕向けられて幼い頃より人と凌ぎを削り、地元小学校というちっぽけな世界からさらなる世界へ向かっていった子供たち。



 競争そのものが自己目的化していると、結果に一喜一憂しながら、良ければ傲慢な物言いに拍車がかかり、悪ければノーベル賞受賞を妄想したりします。ただしそんな中でも、まだ幼さを残す照れ笑いは、ある意味で救いでしたが。



 そんなごく普通の青年の心の隙間に、巧みに忍び寄っていくのが、弱いものの退場は当たり前だ、という感覚です。自分だって弱いものの1人だ、という自覚はありません。それを認めるのは、生存競争の敗者と自分を位置づけることになる、という恐怖感があるのかもしれません。



 あくまでも、自分は強く正しくないといけない。そうでない自分を想像するのは怖ろしい。



 いいじゃない、弱くても。ひとりじゃないよと、一緒につぶやきたい。



 昨晩のNHKスペシャルで、旧ユーゴスラビアに住む劣化ウランの被害者の女性がいいました。
「米国は強大な国です。大きな国は何でもできるが、私たちは何にもできない」



 こう言う人がおかしいのではない。言わせてしまう世の中がおかしいのだと思います。



連想:安倍晋三とイノベーション→競争

Photo_39

野ひめゆりが咲きました。ピンポン球の中に丸ごと入ってしまいそうなくらい小さな花です。



Photo_38  さてさて、「なにがイノベーションだよ」「本当に意味が分かってんのか」――と、冷笑を買った安倍長官の話しが最近のニュースにありました。



 「人口が減少するが、この国はどうしたらいいか」と司会の石原伸晃に問われて「キーワードは2つある」ともったいぶった後、「イノベーションとオープンだ」と続けたらしいのですが、後がいけなかったようです。



「イノベーション」と聞いて、私は思わず最近読んだル・モンド・ディプロマティーク日本語版に載る「競争理論は検証可能か」という小論を思い出しました。



 社会科学高等学院研究部長ジャック・サッピール氏が、新自由主義経済学者の、「競争は善だ、というドグマ」のもとで、疑問さえ差し挟む余地がなくなった現況に警告を発しているものです。



 競争が何よりも新たなイノベーション(革新)のダイナミズムであるという考えも、宗教に近いような信仰である、と退けています。



(安倍晋三氏がこういった意味でイノベーションを使ったどうかはわかりません。)



 最後に氏は、ロシアの民営化、エンロン事件、ワールドコム等々のスキャンダルに多くの専門家が関与していた事実をあげて、新自由主義経済を推進する学者たちが、金と権力のために、社会に多大な損害を与えるそうした神話をあたかも科学的真理にみせかけ、さらにはまっとうな経済学研究に対する疑念を抱かせるに至った現状を指摘しています。



 国鉄・郵政の民営化、ホリエモン、村上ファンド等々、この国にも、そうした事例に事欠きません。



「もっとも利己的な目的に突き動かされた個人間の競争」を、子供を育てた母親としても、また多少とも他家の子どもさんと直接関わり合った経験から考えてみると、競争は善なのか、悪なのか、という問題のたて方は無意味なように思われます。その意味でも、競争理論は検証不可能といえそうです。



 競争によって、頑張った子が報われるというのも、一種の信仰に近いものがあります。報われないときもある、と認めるのは、当事者にとっては辛すぎますし、競争に駆り立てるものにとっては都合が悪すぎます



 競争によって意欲をかき立てられて精進する子もいれば、競争に心身をすり減らして呻吟する子もいます。



 一人ひとりの個性もありますが、意欲を出して競争に取り組める場合と、競争で心の発達にゆがみの出る場合とどこがどう違うのか、やはりずいぶん考えさせられました。



 少数の親しいものの間で競争を強要されるのは、かなりな重荷を背負わされることになります。また、競争で能力が伸ばされるどころか、むしろ良い芽も摘まれて萎縮する結果、競争から降りる人も出てきます。



 その間の当事者の心の葛藤は想像を絶する場合が少なくありません。



 ことに血を分けた兄弟姉妹の場合、ただでさえ意識せざるを得ないところに、親や教師に比較されて優劣に言及されるのは酷いとしかいいようがありません。逃げ出しようにも逃げ場がありません。



 そのきょうだい間の〈競争〉というモティーフは洋の東西問わず神話、聖書にもあらわれてますし、映画『スタンドバイミー』の中で主人公の少年が流す涙も思い出しますね。





 競争には必ず勝者と敗者がいますが、成功体験しか、あるいは失敗体験しか知らないという人はまずいません。多かれ少なかれ、誰しもが成功と失敗をくりかえし、達成と挫折を味わっています。



 誰しもが、優越感と劣等感の間で揺れ動いた経験を持っています。



 そして成長期の攻撃性が、外に向けられて反社会的な行動ることもあれば、「ひきこもり」のように自己の内に向けられて苦しむ場合もあります。



 それでも、競争のもつ正の側面に刺激されて意欲を燃やす人もいれば、負の側面にのみ込まれるように、傷ついて競争から降りようとする人もいます。さらには、傷つきながらもがむしゃらに挑んでいく人もいるところが、人間です。



 そんないろいろな子供たちを見て、どうしても私が納得できなかった子が、競争にとらわれて、競争に勝つことが自己目的化した子たちです。



 競争にひたすら勝って進んでいくことを有言・無言のうちに親に要求されても、成長するにつれ、その要求に応えることが難しくなります。そして小さな挫折を抱えるたびに自尊感情は損なわれ、親の要求に応えられない己にもどかしさどころか、罪悪感さえ感じることも。



 さらにアイデンティティの混乱が重なると、自尊感情は容易に傲慢さに転化される形で修復されたりします。 



 若い人の傲慢な言動の陰には、劣等感にうち震えている姿が見え隠れすることもよくありますが、傲慢と、その裏返しともいえるコンプレックスの絡む罠から抜け出すことは簡単ではありません。



 結局、この競争社会に身を置きながらも、競争そのものではないところに価値を見いだしたものの方が幸せだ、ということになりそうです。



(新自由主義経済の「競争」の話しから、大分脱線してしまいました。m(_ _)m)



プラザ合意の後――米国を支える日本、そして法人税

 イスラエルのレバノン空爆が再開されましたね。




 アラブ世界のみならず、世界中の反感を買っても無理を押し通す。あっ、アメリカは別でしたね。和平を求める意思がありません。




 第1次世界大戦後、イギリス委任統治領のパレスティナに、その後、それも第2次世界大戦の後、アラブ側の一方的な犠牲でイスラエルが建国されるにいたった経緯をみていくつもりでしたが、その前に国内問題をもう少しみようと思います。



 前回エントリーの「法人税率の推移と歴代内閣」とあわせて、晴耕雨読さんの2日のエントリー、「アメリカはいかにして日本を滅ぼしたか」をお読みください。



 晴耕雨読さんの記事はプラザ合意の話しから始まっています。




 プラザ体制というのは、基軸通貨であるドルを安定させるために、円高阻止にドル買い介入して、巨額のアメリカ国債保有を増やし、円高・ドル安になるたびに約5500億もの国富を失う、という計算になるようです。



 「先進5カ国は、協調して為替レートを円高、マルク高、ドル安に進めることに合意した。」と発表されたプラザ合意について、スーパーニッポニカでは次のように説明しています。



 Plaza_2
 1985年9月にニューヨーク・プラザホテル(写真)で行われた先進5か国蔵相会議(G5)において、当時のドル高を是正するため、為替(かわせ)市場に協調介入する旨の声明を出した。これをプラザ合意という。これによってドル相場は一挙に下落し、所期の目的は達成された。この合意は為替相場をまったく自由に変動させる自由変動相場制から、為替市場の状況により適宜介入する管理相場制への歴史的な転換点となった。(小学館)



 1985年(昭和60年)といえば第2次中曽根内閣の時で、中曽根康弘氏とアメリカ、レーガン大統領との「ロン・ヤス関係」が強調され、「世界の中曽根」をアピールして内閣支持率が上昇した頃でもあります。



 サミットでも中曽根氏は、いつの間にか、それとなく米国大統領のそばに寄り、スナップ写真でも注目される位置に立つ姿が目撃されたことを伝える新聞記事を覚えています。



 ロン・ヤス、そしてジョージ・ジュンイチロウ関係、ターニングポイントには、日米両首脳の親密さが、ことさら強調されますね。





  1980年代に入り、アメリカは79年の第2次オイルショックから他の先進諸国に先駆けて回復して輸入を増やしますが、日本やヨーロッパ共同体諸国は景気回復が遅れたためにアメリカの輸出は伸び悩み、貿易収支が大幅な赤字となります。





 さらにはアメリカの金利水準がかなり高かったために各国の資金がアメリカに流入し、ドル相場が実体経済からみると著しく割高になっていました。



 73年の通貨不安をきっかけに変動相場制に移行した各国通貨は、円相場でみれば、77年初めには1ドル290円台であったのが、78年10月末には176円を記録するというように、70年代、80年代を通じて乱高下します。



 プラザ合意発表前の円相場は1ドル242円。



 発表後は翌年の200円割れから、その後1990年の140円、1995年4月の79円75銭を経て、一貫して円高傾向を保ち、最近は110円近辺で推移してきています。



( 米国エコノミストの予想では、ドルが急落して、日欧の内需拡大が実現すれば、1ドル160円くらいとどまるソフトランディングと130円くらいになるハードランディングのシナリオがあったそうです。)



(また金利面でいえば、日本は89年5月までの2年3ヵ月にわたり、金利2.5%という低い金利に抑えていましたが、米国はやはり金利引き下げをしたといっても10%台から6%台に落としたに過ぎず、ドル通貨の価値は下がっても、金利差のために米国からの資金流出はくい止められたわけです。)



この円高で米国債を保有していた生保は大損害をうけ、輸出産業も打撃を受けます。



 プラザ合意の後、87年(昭和62年)、暫定税率の期限切れから43.3%の法人税が42%に引き下げられ、その後さらに消費税導入により89年(平成元年)に40%、90年の37.5%、そしてついに97年(平成9年)に消費税が5%に引き上げられた翌年、法人税は34.5%に、続く98年には30%にまで引き下げられたのです。



 国はドルを買い支え、企業は法人税の低下の恩恵を受け、貧富の差なく国民には消費税がのしかかり、これからその負担はさらに重くなる、ということになりそうです。



 そして米国は、日経ネットの「プロの視点」によると、「国土安全保障費の積み上げで財政赤字の拡大に加速がかかり、ドル安防止に無関心になり、日中などの外貨準備が買い支えるままに赤字国債を発行している」ということです。

 

法人税率の推移と歴代内閣

  もう一度、財務省の提供する法人税率の推移を見ていただきたい。
(なお、法人税率の表示が昭和25年から始まっているのは、戦後の我が国税制の基礎となったシャウプ勧告が、この年にあったためでしょう)。



 昭和25年に35%の法人税基本税率は27年の42%と一挙にあがり、その後段階的に低下して、41年に35%に戻っています。その後上昇に転じるのは45年で、



 56年には財政再建に資するため、という理由で42%に、



 59年には所得税減税に伴う税源確保のため、という理由で、これまで最高の43.3%にまで引き上げられます



 56年といえば、「増税なき財政再建」を公約として前年に誕生した鈴木善幸内閣が、6月に2兆円以上の歳入欠陥が明らかとなって、公約履行が不可能だと判った年です。



 59年は、新自由クラブとの連立内閣として成立した第2次中曽根康弘内閣の2年目にあたります。



 そして42%に引き下げられた62年は、第3次中曽根内閣衆参同日選挙での自民党圧勝を受けて成立した翌年。この後、法人税率は低下する一方です



 この内閣で、国鉄の分割民営化を実施したほか、売上税導入・マル優廃止を企画し、防衛費のGNP1%枠突破など、国会での圧倒的多数を背景に従来の懸案を一気に解決しようとし、さらに戦後政治の見直しも提起されました。



 次の竹下登内閣の平成元年に消費税が導入されると共に法人税は40%に引き下げられ、さらに翌2年に37.5%、10年に34.5%、11年に現行の30%まで下げられこるとになったのです。



 なお、平成元年の40%は消費税を導入した税制の「抜本改正」の経過税率なので、翌2年に本来の37.5%になったものです。この時は第2次海部俊樹内閣。



 34.5%引き下げ時は、第2次橋本龍太郎内閣。この前年、北海道拓殖銀行と山一証券の破綻が起こっています。



 30%まで大幅に引き下げたのは、小渕恵三内閣。前内閣時の金融危機に加え、この年の日本長期信用銀行(現、新生銀行)と日本債券信用銀行の破綻もあって、景気対策が求められていました。



 昭和62年、自民党が衆参同日選挙で圧勝したとたん、翌年に法人税率が引き下げられたというのも露骨ですね。



 ただ、法人税については、消費税のように人々の口に上りませんし、マスコミも黙っていますから、こうした税率の推移について、これまで私も全然知りませんでした。



 中曽根氏というと、反射的に思い出すのがアメリカ、レーガン大統領とのロン・ヤス関係。彼が政権をとった時代は、戦後政治の1つのターニングポイントになりそうです。



 また、サミットで同席した首脳は他に、労働運動と対決しつつ、大量の失業者を生み出しながらも、マネタリズム(貨幣主義)に基づく経済政策に固執した、イギリス、サッチャー首相がいました。



 レーガン、サッチャー両氏とも、新自由主義の経済政策をとったことで知られています。



(今日はここまで。明日に続きます)

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