桃太郎は、どのようにして教科書に登場していったか
あれあれ、たいして尊敬もできない人物をただ選挙のためにだけ担ぎ出したのは誰だったのでしょう。それで幹事長は愛党心を発揮し て、とにかく首相に忠誠を誓え、というわけですか。
採寸は間違えるわ、生地も裁ち間違えて仕立てるわで、服が着られない。それでも服に体を合わせろ、といっているみたい。
柳井前駐米大使、中西京大教授、伊豆見静岡県立大教授出席の18日のNHK日曜討論では、6カ国協議で日本が孤立していたということはあり得ない、北朝鮮に大規模経済支援ができる国は日本だけであり、日本が6カ国協議の成否を握っていると、終始政権擁護が繰り返されてました。
いろいろなところで、いろいろな人たちが、総理をかばってくれるようです。
堅い話が続いたので、今日は目先を変えて「桃太郎」のことでも。
いつかLuxemburgさんが「世界一受けたくない授業」として武田鉄矢さんの桃太郎解釈をあげられていました。
多面的な見方の例として武田さんは、「桃太郎は両親に育てられなかったために、人と違うといじめられて仲間はずれになり、グレてそのコンプレックスから自分は人と違う、だから違うことをしなければならない、と思うようになり、鬼退治に至った」と解釈されたそうです。
こんな解釈をしたら、フロイトさんも口をあんぐり、というよりも、怒り出すかもしれません。
この桃太郎話しの変遷を、『学校のない社会 学校のある社会』の中で中内敏夫さんが書かれた「教材『桃太郎』話しの心性史」から見ていきます。
もともと「桃太郎」話しは、室町末期に桃信仰と島渡り伝説という別々の話しが合体してできあがったもので、400年の伝統がある。
桃を食べて、あるいは川の水を飲んで若返った「ぢゞ」と「ばゞ」の間に赤ちゃんが生まれる話しが回春型。老婦人が川から拾ってきた桃から桃太郎が生まれたという果生型より古いタイプだ。
これが江戸時代には草双紙といった出版物のかたちで広まり、まず最初は「赤本」という女性や子ども向けのマンガ本のようなものに回春型の話しが登場する。
「昔々、爺は山へ柴刈りに、婆は川へ洗濯に。美しき桃流れ来しを取りて帰る。
爺『あゝくたびれた。早く帰って婆が顔でも見よう』
婆『やれよい桃かな。も一つ流れてこい。爺におませう』
爺婆桃を服し、忽ち若やぎて一子を設け、桃太郎と名づく。」
赤本の中には、「ばばあどのもいきなおんなになつていろけたぷりに」という表現や、桃太郎が後に女郎買いに出かける場面まで出てくるものまである。けれど8世紀の徳川吉宗の享保年間あたりから子どもへの眼差し、つまり読者である子どもに寄せる人々の気持ちのありようが変化したことから、話しそのものも回春型から果生型へとの変わっていく。
「風俗之為にもよろしからざる」好色本の類として吉宗の政権が行った草双紙類取り締まり・弾圧を逃れて、「桃太郎」の話しは教育用童話の仲間入りをする。ただし一気に変わっていったのではなく、回春型と果生型の混合型がかなり長い間続く。
学校教育の中で『桃太郎」が教科書に初めて採用されたのが明治20(1887)年の『尋常小学読本』。そしてこれ以後、国定教科書の中で語られていく。
鬼ヶ島征伐に向かった桃太郎は、明治に入ってもしばらくは少年ではなく若衆の姿だった。若衆といっても特定の年齢に絞れるものではなく、若者宿に集った独身の男ということぐらいの意味。
( 若者宿については別名「ワローグミ」という語があるように、若衆は重要な労働力であると同時に、時には持て余すほどのエネルギーを持った手に負えない存在 です。桃太郎は、そんな「ワロー」のひとりだったのでしょう。そして明治27(1894)年の巌谷小波の作品では、「ワロー」は凛々しい美青年になっています。)
そんな若衆姿の桃太郎が少年の姿で描かれるようになったのは第1次大戦の終わる頃。


(上の写真は1781年に赤本で書かれた『桃太郎一代記』。
上では若衆姿の桃太郎が鬼と連れだって歩いています。下では同行した鬼たちといっしょにこれから遊里で遊ぼうか、というところでしょう。遊女まで角が生えているようです。
この『桃太郎一代記』頃の鬼ヶ島行きは、単に「たからものをとりにゆく」とされていただけ。ワローの気質をよく見せてけっして、優等生ではありません。)
幕末から明治にかけての国学者たちは、儒者たちが伝統的に捉えてきた「学ぶ」に対して、「教える」という考えを「愛(お)す」の発露として説く。成立して間もない「日本」という空間意識を記紀神話で裏打ちして三次元化し、桃太郎は「天津神」の申し子であるから『うつくし』まねばならぬという」「啓蒙的な形」をとった。
このことは巌谷小波の童話によく表れ、子供のいないのを嘆く爺婆の望みが神意によってかなえられ、そのためこれを慈しまねばならぬとされている。子の教育に対する親の義務が、ヨーロッパのように超越神ではなく祖霊神であるところに日本の特色がある。
さらに明治末期になると、神意を持ち出して説いた愛育の義務があたりまえのこととして人々の心の中に入り込んでいったため、強調する必要も無くなくなる。
すでに桃太郎話しは、鬼が「悪さ」をするので「こらしめに」いくという征伐話になっており、1898年の修身の教科書では「天子様」に忠義を尽くしたいと鬼退治に出かけ、やはり天子様への忠義の心で鬼たちを打ち負かす話しとして出ていた。
回春型はとっくの昔に消えて、桃太郎は若衆姿ではなく、今日よく見る「気はやさしくて力もちの、生まれながらにして美徳を備えた少年の姿へと変貌。期待される人間像として教訓童話、修身童話のなかに受け継がれていく。
「桃太郎」像という日本に住んできた人びとの心性に棲み込んできた子供像を利用し、これを加工することによって、薩長政権が心性の革命を起こそうとした。
以上が中内敏夫さんのお話です。
おもしろいのは別種の桃太郎がいくつも存在したことです。
その中の一つ、芥川龍之介の桃太郎も見てみましょう。
鬼ヶ島を蹂躙した桃太郎に、鬼の酋長がおそるおそる尋ねる場面を抜き書きすると次のようになります。
|
「わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致したため、御征伐を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明し下さるわけには参りますまいか?」 |
第1次世界大戦後の1920年、ドイツ領だった南洋の島々の赤道以北が日本の委任統治領になります。芥川がこれを書いたのは1924年のこと。鬼が島は絶海の孤島で、「椰子の聳えたり、極楽鳥の囀
さすが芥川! 教科書の桃太郎とはひと味違います。でも、本来民衆の間に伝わっていた赤本の桃太郎とは、ずいぶん違うものになっていますね。

人気blogランキングへ
tag : 教育


