メディアの自主規制を狙う菅総務相 ムラの教育
菅総務相の脅しが利いたのか、最近のNHKの報道番組はますます見てはいられない、聞いてもいられないものになってきました。
関西テレビのデータ捏造問題をきっかけに総務省が放送局への監督を強化する法改正を検討していると報道されています。「報道の自由は当然だが、事実と異なったことを報道する自由はない」と菅総務相は16日述べ、改正に改めて意欲を示したそうです。
公共の電波を正しく使ってもらうという責任は総務省にある、ともいったそうですが、「(改正しても)業務改善命令を出すつもりはない。自主的なものを検討している」とつけ加えています。
「自主規制」を狙っているわけです。
今でも十分すぎるほどテレビ局・新聞等の報道機関は自主規制しているのに、まだまだ足りないというのでしょうか。まだまだ貢ぎ足りない、まだどこかに隠しているんだろう、残らず召し出せ、とでも言いたげな何ともあこぎな強欲ぶりに、百姓と何とかは絞れるだけ絞れ、という言葉を思い出します。
多分、人間のこうした欲望、とりわけ為政者、政治にたずさわるもの、人を支配していると思っている人たちの求めるさらなる要求は、際限がないのです。いつまで自分たちがその地位にいられるか不安に駆られる。権力の座にいる人は、自分がそこから滑り落ちるのが怖くてたまらない。
疑心暗鬼の目を周囲に注いで、さらなる忠誠を求めるのです。
と、腹ばかり立てているのもおもしろくないので、話題を変えて、昨日の桃太郎のエントリーで出てきた「若者宿」について、少々説明いたします。
明治5(1872)年の学制発布以前の日本では、子供たちはどのようにして大人になっていったのか考えるとき、この若者組はどうあってもはずせないもの。
当時、人口の85%を占めた農漁村の人びとは、支配層の持つ価値観、文化とは離れたところで生活の文化をつくり継承し、子育ての習俗を持ちました。
幕藩体制下の過酷な統治にあって年貢等の支配者の要求に応えるために、ムラは村極(ぎめ)や村法を定めて連帯責任を確認。これを全うできない場合は、赤ん坊なら間引き、成長しては勘当・旧離を届け出て人別帳から外しました。
一人前になるとはそうした村の構成員の一員になることであり、単に直系家族にとって意味があるだけでなく、ムラという共同体にとって重要な問題だったのです。ですから「若者組」とは社会的訓練として体系化されたムラの公的制度ともいえるわけです。
祭礼や芝居興行を企画するのも若者組の役目でしたが、一揆や打ち壊しの主力となったのも彼等であり、漁村にあっては海難救助の任にもあたりました。
夕食後若者宿に集まり、時には娘宿に夜なべ仕事を手伝いに行ったり、夜ばいに行ったりして朝までそこで過ごします。地方には高度成長期前までこの夜ばいの風習の残る村もあったようで、僻地に赴任した新卒の女性教師をこれから守るのも同僚教師の仕事だったと聞いたことがあります。
「質朴にして親切」だが「怠惰遊蕩の風」は逃れがたく、「村芝居に祭文読み、夜ばい」が好物だと明治の新聞に揶揄されたムラの住民たち。
ソフィストケートされた(爆)現代人は当惑するばかりですが、若者組は、もちろんこんなことだけをしていたわけではありません。大体15歳で加入して結婚まで、あるいは結婚後も最長42歳まで共に過ごすわけですから、宿の仲間はさぞ結束が固かったことでしょう。そんな結束がムラの運営で大きな力を発揮するのはわかりますね。
ヨーロッパにも同様な夜の集いヴェイエやキルトガングという風習があったといいますから、公教育制度以前の教育としては、けっこう普遍的な形なのかもしれません。
このムラにあった若者組が、やがて官制の青年団へと再編成させられ、それの完了が大正末期。大正15年に創設された青年訓練所は主として軍事訓練を施し、これが後に実業補習学校と統合され、男子の義務となります。
↓ ランキングに参加しています。よろしかったら、クリックをお願い致します。

人気blogランキングへ
関西テレビのデータ捏造問題をきっかけに総務省が放送局への監督を強化する法改正を検討していると報道されています。「報道の自由は当然だが、事実と異なったことを報道する自由はない」と菅総務相は16日述べ、改正に改めて意欲を示したそうです。
公共の電波を正しく使ってもらうという責任は総務省にある、ともいったそうですが、「(改正しても)業務改善命令を出すつもりはない。自主的なものを検討している」とつけ加えています。
「自主規制」を狙っているわけです。
今でも十分すぎるほどテレビ局・新聞等の報道機関は自主規制しているのに、まだまだ足りないというのでしょうか。まだまだ貢ぎ足りない、まだどこかに隠しているんだろう、残らず召し出せ、とでも言いたげな何ともあこぎな強欲ぶりに、百姓と何とかは絞れるだけ絞れ、という言葉を思い出します。
多分、人間のこうした欲望、とりわけ為政者、政治にたずさわるもの、人を支配していると思っている人たちの求めるさらなる要求は、際限がないのです。いつまで自分たちがその地位にいられるか不安に駆られる。権力の座にいる人は、自分がそこから滑り落ちるのが怖くてたまらない。
疑心暗鬼の目を周囲に注いで、さらなる忠誠を求めるのです。
と、腹ばかり立てているのもおもしろくないので、話題を変えて、昨日の桃太郎のエントリーで出てきた「若者宿」について、少々説明いたします。
明治5(1872)年の学制発布以前の日本では、子供たちはどのようにして大人になっていったのか考えるとき、この若者組はどうあってもはずせないもの。
当時、人口の85%を占めた農漁村の人びとは、支配層の持つ価値観、文化とは離れたところで生活の文化をつくり継承し、子育ての習俗を持ちました。
幕藩体制下の過酷な統治にあって年貢等の支配者の要求に応えるために、ムラは村極(ぎめ)や村法を定めて連帯責任を確認。これを全うできない場合は、赤ん坊なら間引き、成長しては勘当・旧離を届け出て人別帳から外しました。
一人前になるとはそうした村の構成員の一員になることであり、単に直系家族にとって意味があるだけでなく、ムラという共同体にとって重要な問題だったのです。ですから「若者組」とは社会的訓練として体系化されたムラの公的制度ともいえるわけです。
祭礼や芝居興行を企画するのも若者組の役目でしたが、一揆や打ち壊しの主力となったのも彼等であり、漁村にあっては海難救助の任にもあたりました。
夕食後若者宿に集まり、時には娘宿に夜なべ仕事を手伝いに行ったり、夜ばいに行ったりして朝までそこで過ごします。地方には高度成長期前までこの夜ばいの風習の残る村もあったようで、僻地に赴任した新卒の女性教師をこれから守るのも同僚教師の仕事だったと聞いたことがあります。
「質朴にして親切」だが「怠惰遊蕩の風」は逃れがたく、「村芝居に祭文読み、夜ばい」が好物だと明治の新聞に揶揄されたムラの住民たち。
ソフィストケートされた(爆)現代人は当惑するばかりですが、若者組は、もちろんこんなことだけをしていたわけではありません。大体15歳で加入して結婚まで、あるいは結婚後も最長42歳まで共に過ごすわけですから、宿の仲間はさぞ結束が固かったことでしょう。そんな結束がムラの運営で大きな力を発揮するのはわかりますね。
ヨーロッパにも同様な夜の集いヴェイエやキルトガングという風習があったといいますから、公教育制度以前の教育としては、けっこう普遍的な形なのかもしれません。
このムラにあった若者組が、やがて官制の青年団へと再編成させられ、それの完了が大正末期。大正15年に創設された青年訓練所は主として軍事訓練を施し、これが後に実業補習学校と統合され、男子の義務となります。
↓ ランキングに参加しています。よろしかったら、クリックをお願い致します。

人気blogランキングへ


