日雇い派遣労働の経験者の話から女工哀史を思い出したこと
「私も一言! 夕方ニュース」では昨日に引き続き日雇い派遣労働がテーマで、リスナーからのメールを読んでました。
その中で、驚いてあっと声をあげそうになりながらも、“さもありなん”と感じたこと。
妊娠した女性が、仕事をしたかったら中絶しろ、と派遣会社にいわれ、その衝撃で流産してしまい、結局郷里に帰った、という話し。
派遣に限らず、私の若い時代、60〜70年代には似たような話はけっこう聞いていました。流産までは記憶にありませんが、一般企業では、妊娠してもまだ働くのか、と言われる以前に、結婚しても働こうとするにはかなり度胸というか根性が必要でした。私自身、結婚したのだからパートになれば、と組合役員にわざわざ呼ばれてご忠言されましたし。
まあ、へそ曲がりだったこともありまして、もちろんその提案は一蹴。それ以上は会社も組合も言えませんでした。
でも結局、子どもが産まれてから周囲に頼る人もなく、保育園もなく、個人的に頼むほど収入も良くなく、仕事を辞めて専業主婦になりましたが、しばらくは悪あがきをしました。
そして30代になるかならない時に夫の親が寝込み、介護の手が必要になり……と、絵に描いたような“女の一生”が待っていたわけです。
まあ、そんな愚痴話は置いておきまして話しを戻すと、雇用される側が声をあげなければ、雇用する側はいつでも使いやすいように、やり易いように資本の論理に従って働かせようとするわけです。
『蟹工船』が若い人たちに読まれていることを知って記事にしたこともありますが、蟹工船と同時に『女工哀史』も戦前の苛酷な労働を描いたとして有名ですよね。
そもそも日本で近代工業が産声を上げた時代の富岡製糸場は、旧士族出身の優秀な女性が働いたことが知られています。
ここで技術を学んだ女性たちは故郷に帰って指導者となったらしいのですが、1872年の富岡製糸場が操業を始めてから53年後の1925年には『女工哀史』が刊行されています。
『女工哀史』を書いた細井和喜蔵が働いた工場はこの製糸場ではありませんが、それでもこの50年の間に、日本の紡績産業の間ではいったい何があったのだ? と考えてしまうほど、創業当時の富岡製糸場で働いた女性たちと女工哀史に描かれた女性たちの姿の違いに愕然とします。
知り合いの古老のお話では、その昔、昭和の初め頃でしょうか、九州の田舎からも大阪の紡績工場へ働きに行く女性が大勢いたのだそうです。
そして工場での無理な労働がたたって肺結核になり、親が引き取りに行ったそうですが、間に合わずに娘さんは死亡していたり、負ぶわれた父親の背中で息絶えたり、とにかく紡績工場に行くとみんながみんなと言っていいほど、結核に罹る女性が後を絶たなかったのだとか。当然ですよね、感染しますから。
その古老のお姉様もやはり働きに行ったものの結核になって故郷へ戻ったそうですが、今度はそこで弟妹たちがつぎつぎに発病。お姉様はなんとか治ったもののすぐ下の妹さんがそれが元でなくなり、話しをしてくれたご本人もその後15年間床に寝付くことになったのだ、ということでした。
本人の栄養状態も悪い上に劣悪の環境で長時間働かされて20歳前後の女性たちが次々に結核に倒れるなど、どう考えても許されることではないわけですが、当時雇用する側はそれを当たり前のこととして、改める気などなかったのだろうと想像します。
一人が病気になっても代わりはいくらでもいる、ということでしょう?
で、戦後の1947(昭和22)年には労働基準法ができあがっていますから、その後は“哀史”のようなことはなかっただろう、と考えるかもしれませんが、そうではないこともあったのが私たちの国の歴史です。
たしか紡績工場の女性たちが私信まであらためられて、つまり私的な手紙まで開封されて内容を調べられた等々の不満がつのり争議が起こったのが1954(昭和29)年のことでした。
これについては厚労省のサイト、おそらく労働白書でしょう、もう少し詳しい解説があります。
争議の要求事項の中には、仏教強制反対、信書の自由、結婚の自由等まであったことが現代では信じられないほどです。でも、たしかにあったのです。
そうした先人たちの苦労が重ねられて、これまで働く人が守られてきたのだろう、と今さらながらに思います。
私が早々に諦めてしまった、家庭を維持しながら社会に出て働くということを歯を食いしばりながらやり遂げた女性も多いと思います。もう、それだけで私など尊敬してしまいます。
で、とにかく、必ずしも利益を上げていたわけではない官営富岡製糸場は創業からほぼ20年後の1893年に三井に払い下げられ、その後、原合名会社、片倉製糸紡績会社へと次々に譲渡されていったようです。
明治版民営化の後にこの工場の経営や働く環境がどうなっていったのかは私にはさっぱり分かりませんが、日本の紡績産業の場は、50年後には『女工哀史』に書かれたようなものになっていたということ。
戦後もしばらくはその名残が現実にあった、ということ。
派遣については、改革だ、改正だ、と言いながら平然と規制を取っ払ってきた政府と国会、特にコイズミ・竹中コンビの2004年の派遣法改定は罪が大きいですよね。
それまで積み重ねてきたものを壊してしまったのですから。
真面目にぎりぎりまで耐えてどうにもならなくなって、やっと少しずつ声が出始めたのが昨年あたりからでしょうか。
まだ素朴に、世の中は良くなっていく、未来は明るい、と信じていた中学生の頃、まさかこんな風に働き方が問題になるような社会が来るとは思ってもみませんでした。
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7月12日の築地市場移転反対デモが盛り上がってほしい。
こんな風だったらいいなあ。こんなのもあるけれど、子どもも参加できる様に準備が進められています。デモ当日は、プラカードなど持ち寄って楽しく参加しましょう、とのことです。
その中で、驚いてあっと声をあげそうになりながらも、“さもありなん”と感じたこと。
妊娠した女性が、仕事をしたかったら中絶しろ、と派遣会社にいわれ、その衝撃で流産してしまい、結局郷里に帰った、という話し。
派遣に限らず、私の若い時代、60〜70年代には似たような話はけっこう聞いていました。流産までは記憶にありませんが、一般企業では、妊娠してもまだ働くのか、と言われる以前に、結婚しても働こうとするにはかなり度胸というか根性が必要でした。私自身、結婚したのだからパートになれば、と組合役員にわざわざ呼ばれてご忠言されましたし。
まあ、へそ曲がりだったこともありまして、もちろんその提案は一蹴。それ以上は会社も組合も言えませんでした。
でも結局、子どもが産まれてから周囲に頼る人もなく、保育園もなく、個人的に頼むほど収入も良くなく、仕事を辞めて専業主婦になりましたが、しばらくは悪あがきをしました。
そして30代になるかならない時に夫の親が寝込み、介護の手が必要になり……と、絵に描いたような“女の一生”が待っていたわけです。
まあ、そんな愚痴話は置いておきまして話しを戻すと、雇用される側が声をあげなければ、雇用する側はいつでも使いやすいように、やり易いように資本の論理に従って働かせようとするわけです。
『蟹工船』が若い人たちに読まれていることを知って記事にしたこともありますが、蟹工船と同時に『女工哀史』も戦前の苛酷な労働を描いたとして有名ですよね。
そもそも日本で近代工業が産声を上げた時代の富岡製糸場は、旧士族出身の優秀な女性が働いたことが知られています。
ここで技術を学んだ女性たちは故郷に帰って指導者となったらしいのですが、1872年の富岡製糸場が操業を始めてから53年後の1925年には『女工哀史』が刊行されています。
『女工哀史』を書いた細井和喜蔵が働いた工場はこの製糸場ではありませんが、それでもこの50年の間に、日本の紡績産業の間ではいったい何があったのだ? と考えてしまうほど、創業当時の富岡製糸場で働いた女性たちと女工哀史に描かれた女性たちの姿の違いに愕然とします。
知り合いの古老のお話では、その昔、昭和の初め頃でしょうか、九州の田舎からも大阪の紡績工場へ働きに行く女性が大勢いたのだそうです。
そして工場での無理な労働がたたって肺結核になり、親が引き取りに行ったそうですが、間に合わずに娘さんは死亡していたり、負ぶわれた父親の背中で息絶えたり、とにかく紡績工場に行くとみんながみんなと言っていいほど、結核に罹る女性が後を絶たなかったのだとか。当然ですよね、感染しますから。
その古老のお姉様もやはり働きに行ったものの結核になって故郷へ戻ったそうですが、今度はそこで弟妹たちがつぎつぎに発病。お姉様はなんとか治ったもののすぐ下の妹さんがそれが元でなくなり、話しをしてくれたご本人もその後15年間床に寝付くことになったのだ、ということでした。
本人の栄養状態も悪い上に劣悪の環境で長時間働かされて20歳前後の女性たちが次々に結核に倒れるなど、どう考えても許されることではないわけですが、当時雇用する側はそれを当たり前のこととして、改める気などなかったのだろうと想像します。
一人が病気になっても代わりはいくらでもいる、ということでしょう?
で、戦後の1947(昭和22)年には労働基準法ができあがっていますから、その後は“哀史”のようなことはなかっただろう、と考えるかもしれませんが、そうではないこともあったのが私たちの国の歴史です。
たしか紡績工場の女性たちが私信まであらためられて、つまり私的な手紙まで開封されて内容を調べられた等々の不満がつのり争議が起こったのが1954(昭和29)年のことでした。
これについては厚労省のサイト、おそらく労働白書でしょう、もう少し詳しい解説があります。
争議の要求事項の中には、仏教強制反対、信書の自由、結婚の自由等まであったことが現代では信じられないほどです。でも、たしかにあったのです。
そうした先人たちの苦労が重ねられて、これまで働く人が守られてきたのだろう、と今さらながらに思います。
私が早々に諦めてしまった、家庭を維持しながら社会に出て働くということを歯を食いしばりながらやり遂げた女性も多いと思います。もう、それだけで私など尊敬してしまいます。
で、とにかく、必ずしも利益を上げていたわけではない官営富岡製糸場は創業からほぼ20年後の1893年に三井に払い下げられ、その後、原合名会社、片倉製糸紡績会社へと次々に譲渡されていったようです。
明治版民営化の後にこの工場の経営や働く環境がどうなっていったのかは私にはさっぱり分かりませんが、日本の紡績産業の場は、50年後には『女工哀史』に書かれたようなものになっていたということ。
戦後もしばらくはその名残が現実にあった、ということ。
派遣については、改革だ、改正だ、と言いながら平然と規制を取っ払ってきた政府と国会、特にコイズミ・竹中コンビの2004年の派遣法改定は罪が大きいですよね。
それまで積み重ねてきたものを壊してしまったのですから。
真面目にぎりぎりまで耐えてどうにもならなくなって、やっと少しずつ声が出始めたのが昨年あたりからでしょうか。
まだ素朴に、世の中は良くなっていく、未来は明るい、と信じていた中学生の頃、まさかこんな風に働き方が問題になるような社会が来るとは思ってもみませんでした。
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7月12日の築地市場移転反対デモが盛り上がってほしい。
こんな風だったらいいなあ。こんなのもあるけれど、子どもも参加できる様に準備が進められています。デモ当日は、プラカードなど持ち寄って楽しく参加しましょう、とのことです。



