2.26事件との遭遇

『2.26事件と郷土兵』という、埼玉県編纂の2.26事件証言集に目をとおす機会に恵まれました。なんでも事件参加者の半数以上が埼玉県出身者だったことから、県史の別冊として刊行されたもののようです。



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1981年の刊行当時はまだ存命中の父でしたが、証言者の中には入っておりません。でも、恥ずかしながら、どのページを読んでも、どの写真を見ても、涙があふれてくるのを抑えられません。



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事件参加者のほとんどが、父の生年、大正4年前後の生まれです。



 これまで私自身は、2.26事件というものをなんとなく避けてきた気がします。父もほとんど語ることはありませんでした。ただ、「父ちゃん、怖かった」と、かすかに笑いながら、チラッと言ったことだけ覚えています。



 それで今頃になって知り、驚いたこと。



 計1,558名の参加兵員のうち、なんと父のような初年兵が、1,027名を占めているのです。事件参加者のうち、3分の2が初年兵だったのです。



 初年兵のほとんどは満20歳の年が明けた1月10日に入営し、翌月の26日に事件に遭遇しているのです。





  父がどの連隊に属していたのか、とうとう最後まで聞くことはありませんでしたが、当時の徴兵区から考えると、第1師団歩兵第3連隊(麻布3連隊に同じ)のいずれかの中隊に属していたのでしょう。



 歩兵第3連隊は蹶起軍1,558名のうち937名という最大多数を擁し、「入隊後は訓練と内務に明け暮れ、毎日が追い立てられるような忙しさ」の中で、2月26日を迎えています。



 2月26日、午前1時、あるいは3時、あるいは4時というように、突如非常呼集されてゆり起こされた時刻は中隊によって異なるようです。そして軍服着用。軍装の整ったところで待機。



 明治神宮参拝、あるいは昭和維新の断行、暴動鎮圧、尊皇討奸、靖国神社参拝、といったように、真偽にかかわらず、一応目的を告げられたところもありましたが、どこへ行くのか、目的が何なのか、まったく知らされずに黙々と営門を出ていったところも。



 各所の襲撃は、午前5時を期して一斉に行われました。



 下士官や2年兵の中には、事件前の連隊の雰囲気、また教育進度の速いことに疑念を抱いた人たちもいたようですが。



 上官の命令は絶対でしたから非常呼集で出動したときも何ら疑わずに従っていき、29日に撒布されたビラをみて、上等兵でさえ、「これほど驚いたことはない」というほどでした。ビラでは、命令に服従したのが誤りであったと説明されていたためです。



 そこには、命令には2通りあって、服従しなくとも良い場合があるのか、と悩む姿がありました。



「今思うと2.26事件の参加は軍隊の裏面を見せられたようなもので、命令による行動にも服従する側にとっては正従か盲従かをよく弁えねばならぬことを教示された気がする。こんな馬鹿げた話しは他にはない。命令は朕の命令しかないはずである。



 反乱軍とみなされて鎮圧軍と対峙するも戦闘を交えずに原隊復帰。1ヵ月のあいだ監禁状態に置かれ、父親である私の祖父も面会を許されていません。そうして4月下旬に監視付の上で帰郷。自宅に帰れる者もいれば、小学校での集団面会しか許されなかった者もいます。その間たったの数時間。



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そして5月に渡満



 「また満州にあっても犯罪者、罪滅ぼしの言葉は耳にタコができる位聞Photo_3
かされ、同時に猛訓練を課せられた揚げ句北支に派兵させられたこともみようによっては一連の仕打ちであったのではなかろうか。


 やはり政治が悪いとすべてが狂ってしまうものである。こPhoto_47れは現代でも同様の筈だ。」



 渡満して翌年、12年の7月、廬溝橋事件を発端に北支事変が起こり戦火が拡大して、連隊に出動命令がおります。



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「これから長城作戦を開始する。お前たちは日頃鍛えた力量を発揮し反乱軍の汚名をそそぐよう身命を投げ出して戦闘を遂行せよ」という連隊長の訓示に、「この期に及んで事件を引き合いに出すことは戦闘の名目で我々を殺すつもりか……私は悔しくてならなかった。」と、40何年か前のことを述懐する証言もみられました。



 
Photo_49そして、「敵も死にものぐるい」で、「予期以上の激戦」が続きます。



終始無理な戦闘をやるので激戦にならざるを得ないのである。」



「事件当時入隊したばかりの初年兵だった者が、今北支の戦野で罪滅ぼしの責を背負って激戦地廻りをさせられるとは昭和十年兵は全く不運の星の下に生まれた者である」という証言者の言葉に、また涙がこぼれます。



 反乱兵士の汚名をきせられ、さらには厳重なかん口令がしかれ、拡大していく戦線の最前線に駆り出され、事件参加兵たちの多くは戦死していきます。





軍隊の不条理」ですますにはあまりに重たい、無名の人々の生と死です。



 今では、当時の父の年齢を、子供たちさえとうの昔に超えてしまいました。





戦時下コピーと日本の軍隊 夜店のバナナ

日本の軍隊 夜店のバナナ
 買(勝)った 買(勝)ったと
  ま(負)けてゆく



 大本営発表とは裏腹の戦局に、軍隊内では密かにこんな歌が歌われていたといいます。自嘲気味のヤケクソ気分……私の父親もこんな歌を歌っていたら、と思うといたたまれない気持になります。
 



 相次ぐ撤退、玉砕の報。食料事情はますます悪化し、1944年6月には、中学生の勤労動員が始まります。



 今日もまた、情報局発行『写真週報』の「時の立て札」から。  



  闇や買い出しで自分だけ
  豊かに食べたがる人たちに
  日本の有難さ、良さが、味はへるだらうか
  凍土にたち、湿田に入り、汗と泥土にまみれて
  食糧増産を続ける農村の現実を
  食事のたびにしみじみと味はってみることだ
  食物のことはそれからの話しにしよう
              (1944年1月12日号)



  お父さんは今日も三割増産だとはりきり
  お母さんは大根の葉でうまいおかずを作り
  おぢいさんは一坪庭園に馬鈴薯を植ゑ
  おばあさんは小布を集めて足袋を作り
  子供たちは寒くないぞと勇んで学校へゆく
   工員でなくとも飛行機をつくる道はある
   みんなが自分の持ち場に力一杯つくすことだ
   私たちの家庭も
   いはば飛行機工場の協力工場であり
   わたしたちは栄誉あるその工員なのだ
                  (2月23日号)



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         『写真週報』では、何坪かの空き地があったら、「皆んなで芋を作らう」と、畝の作り方から植え付けまで、写真付きで説明しています。



 輸送船は軍需物資を運ぶに使うのだから外地からの米を期待してはいけない。武器を送るために、戦争に勝つために、食料は自分たちでつくろう。それが国民の義務だ、とかけ声をかけながら。



 何でも、首相就任時、東条英機は、「ごみ箱宰相」とか「東条さん」とかいわれて、国民に人気があったといいます。



 なぜ「ごみ箱宰相」かというと、国民生活の実態を知ろうと朝の散歩時に公園や家庭のごみ箱を覗くというパフォーマンスを行ったためだとか。きっと、メディアがそれを追いかけたのでしょうね。



 昭和16年の流行語は、「外食券」「錬成」「肉なし日」「歩け歩け」「憂・良・可」「ABC包囲陣」「みそぎ」「行列買い」「箸持参運動」「ごみ箱宰相」「奉安殿」「出せ一億の底力」「ニイタカヤマノボレ」 だったそうです。すべて戦争絡みですね。



 小泉ジュンイチロウ氏の数々のパフォーマンスや安倍シンゾー氏の、とってつけたようなパフォーマンスの先達はいたのです。



 そして、パフォーマンスとかけ声の政治に熱狂したのも、昔だけではありませんでした。





テポドンだ、断固として?(笑)「疑惑のトライアングル、安倍晋三・文鮮明・金日成」バナー

百姓はすごい!――ただのオオカミ遺伝子ではありません

 皇国史観の唱道者、平泉澄に「歴史がない」と決めつけられて豚と同列に置かれ、それを信奉するもの達の捨て石にされた「百姓」たち。



 ところが18、19世紀、江戸の経済システムの中で生産力を発展させていった百姓の中から、巨大な民衆運動が発生しているのです。



「文政六年一千七ヵ村国訴」とよばれるものがその代表で、摂津の国と河内国2ヵ国、合わせて1007ヵ村を代表して、50名の「惣代」(村役人)が郡と国の境界を越えて集まり、そろって大坂町奉行所へ、畿内の百姓が生産した綿花を自由に販売することを求めて訴え出ました。



 この時、幕府領と大名領、旗本領が入り交じった、その境界を越えて庄屋達が郡全体で集まり(郡中寄り合い)「郡中惣代」を選ぶ、あるいは領主ごとにそれぞれ「寄り合い」を開いて惣代(「惣代庄屋)を選ぶという2つの方法で、自分たちの代表およそ50人を大坂の寄り合いに送り出したのが1823年4月のこと。



 惣代によって運動戦略が発案されて地域によって異なる利害関係も巧みに調整され、1000ヵ村以上の村々の結束が持続されるなかで訴願項目がまとめられます。



 結果、7月には勝訴します。



 1854年(安政元)の国訴では摂津・河内1086ヵ村が連合して郡から選ばれた惣代たちが集まって、そこからさらに代表を選び、いわば惣代の惣代54名が訴願運動にあたりました。



 1864年には、摂津・河内の1262ヵ村の連合から惣代の惣代たちが3ヵ月にわたって訴願運動を展開。



 こうした国訴では、惣代には村々から「頼み証文」が差し出され、そこでいかなる問題が発生しようとも、村方が惣代とともに共同責任をとることを保証しています。





「頼み証文」にはかなりの額の惣代の必要経費まで規定して、惣代の立て替えに対しては「利息」まできちんと支払われましたから、見事な代議システムですよね。



 ついでにいいますと、一般的に持たれている「竹やり、むしろ旗」という百姓一揆は、どうも実際とはかけ離れていたようです。竹槍を持ったのはむしろ先の戦争中、というところがおもしろいところ。



 一揆参加者は、「あえて人命をそこなう得物はもたず」として、日常の農耕で使う鎌や鍬、鋤、鉈(なた)等を持ったといいます。つまり、江戸期を通じて百姓一揆は、けっして武装蜂起を意味したものではなかった、と研究者は言っています。



 すごいのは、天保の改革直前の1840年に庄内藩で起きた、三方領地替え反対の一揆です。



 3つの大名の領地を順送りに移し替える費用を押しつけられた百姓達が、各所で数万人規模の大集会(大寄)を開き、十数人から数十人の代表が江戸へ出て、幕府要人や藩主たちに直訴したのです。



 大寄合の参加は高札によって呼びかけられ、集まる際には、畑作物をむやみに踏み散らかすなとか、役人には雑言は言うな、等といった注意点が明確に定められていました。



 結局水野忠邦の反対はあったものの、翌年には三方領地替えは撤回され、一揆勢は軽い処分ですみました。



 まさに、百姓が幕府の転封政策に影響を及ばし、歴史をつくったわけです。



 この一揆については、その後一揆指導者の手で記録となる約80シーンの絵巻物『夢の浮橋』が作られていますから、当時のありさまを見ることができます。



 このときの一揆もよく統制の取れたもので、百姓は木綿や紙でできた村の旗の下に集まり、村ごとに参加していました。



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 ちょっと分かりにくいのですが、大かがり火の横にひときわ高い、先端にひょうたんを逆さにつけた棒が立っています。これが一揆の「目印の旗」。



 その他には「北晨」と書かれた大旗、大太鼓が見えます。別本にはホラ貝の持ち手も描かれているものがあるとか。



「目印の旗」が動くときは「惣つぼみ」で、一揆勢はまん中に集まってまとまる。「北晨の大旗」が動くと「人数繰り出し」で一揆勢は広がってゆく。法螺貝が鳴るときは、最初の場所にまとまる。大太鼓が鳴ると「鬨の声」、「ヤーヤー」をあげる。また、列を正しているときは、組々の旗の下にまとまる。



 真ん中の広場は「催合」といって、「大評議」(全体会議)を行い、村々から1〜2名の代表者が大旗の下に集まるところ等々。



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 スローガンを記した旗も登場し、掛詞を巧みに使うなど機知に富み、デザイン化されています。



 左は、その中の1つで、西瓜の熟した絵が描かれています(「熟す」は方言で「すわる」といい、これにより、転封に反対する意を表しているそうです)。



 一揆勢が江戸で訴状を提出するのは、老中や奉行、藩主に対してですが、この時、籠にすがって行うので、「かご訴」と呼ばれ、これにも2、3人ずつ組になってするという「作法」がちゃんとありました。



 傑作なのは、かご訴をした大名・旗本からご馳走になることさえあったそうで、くりかえしかご訴を行ったにもかかわらず、罰せられたものはこの時ひとりもいなかったとか。



 いわば、合法的な一揆といえるのでしょう。目からうろこの江戸一揆像です。



 おまけに、当時、村役人たちが公用で奉行所に出張するときに利用した「郷宿」(ごうやど)では、訴願などの文書を作成する指導や代筆、奉行所への取り次ぎまでも仕事にし、料金も気安く依頼できる安いものでした。



 こうした民衆のエネルギー、英知を結集した百姓たちの高度に組織化された運動があったことは、百姓には歴史がないどころか、百姓自身が歴史をつくってきたことを示しています



 勝てば官軍で、江戸の政治と社会をことさら暗黒に描いたのは、明治新政府であったようです。その延長で、百姓もことさら暗愚に色づけされたかもしれません。



 また新政府をつくった、いわゆる「元勲」たちを輩出した西南雄藩は大きな家臣団を擁して民力を支配していましたから、江戸から明治へと時代が変わったとき、あたりまえのごとくその構図を持ち込んだことは十分考えられます。





 それにしても、大結集して自らの意思を権力側に訴えた民衆は、幕藩体制の崩壊後いつのまにか、知恵あるオオカミから牙を抜かれた従順なヒツジになったのはなぜでしょうか。



 大同団結して要求を貫こうとしていた民衆が、一人ひとりバラバラの帝国臣民となって帝国の支配システムの中に組み込まれてしまったのは、どうしてでしょうか。



 農民の力を結集した江戸の一揆の記憶は、秩父事件をはじめとする一連の騒擾、足尾銅山鉱毒事件あたりで途切れてしまいましたし、鉱毒事件の際の田中正造の天皇への直訴は、最後のかご訴と考えることもできます。



 秩父事件は、武装蜂起した点で江戸後期の合法的な体制内変革とは異なってきますが、事件の主人公たちは、蜂起の前に重ねて請願運動をしていたことを忘れてはいけないでしょう。



 合法的な解決の道を閉ざされて蜂起した民衆を圧倒的な力で抑えつけた明治の圧政は、江戸後期の幕藩体制を超える酷さで迫ってきます。



 いわゆる「仁政」を求めて決起した農民たちに、近代国家への脱皮を図る政府があくまでも契約や法律に則った姿勢を貫いたからです。



 また当時、調停手続きあたる「勧解」が、「身代限り」(今にいう破産)処分以上に行われていたという事実もあります。が、「富国強兵」を国是とする政府が、厳しい税負担を国民に強いたことは見逃せません。



 ことに秩父事件の起こる80年代は朝鮮を巡って清国とも対立が深まる一方で、ベトナムやカンボジアがフランスの保護下に入るなど、東アジアへの列強進出が露わになっていますから、民をさしおいても、強兵に力を入れたことでしょう。



 そしてこの強兵政策がその後の日本の対外侵略へと繋がりました。



 ところがその前に、まず軍隊は、国内の農民騒擾に出動しているわけです。軍備増強に重税を課せられ、その上鎮圧に兵力で臨まれては、農民は踏んだり蹴ったり、というところ。



 やはり、請願段階でなにか解決策を探るべきだったのではないか、前の時代のように借金棒引きとはいかなくとも、不況下で窮迫する農民に対する貸し金利子率を下げたり制限を設けたりするのは、人に武器を向けることにくらべたら実に簡単なことではないか、と思ってしまいます。



 勧解手続による「調和」(今でいう「和解」)がどこまで実施されていたのかは分かりませんが、とにかく農民たちは万策尽きて決起し、軍隊の力で鎮圧され、敗走後は厳罰が下されたわけです。



 せめて、警官隊と交戦する決起初期の段階で政府側が話し合いの姿勢を持って現場に直行していれば、事態は違う展開を迎えたのではないか、とついつい考えてしまいます。当時は同じような事件が後を絶たなかったため、そんなこといちいちしていられない、という声もあがりそうですが、それは政治の放棄というものでしょう。



 明治政府はこの戦闘で死亡したり負傷したりした軍人や警察官の処遇にあたって、これを西南の役に準ずる「戦争」として扱い、その戦況や結末の報告は大政大臣から明治天皇のもとにまで届けられたといいますから、もしかしたら
ヤスクニに祀られているのでしょうか。



 さて、手元を見ると、「障害者施設補助金」を「一律25%削減」の文字が新聞紙面に見えます。



 身体・知的・精神障害者の小規模通所授産施設などを対象とする、今年10月〜来年3月の国庫補助金を一律に25%削減する方針を、厚生労働省が「事務連絡」で都道府県、政令指定都市、中核市に通知していたということです。



 国は自立支援法の施行に伴うものだ、といってますが、あれだけ多い批判に背を向けて粛々とこうした通知を送るのは、明治の暴政と大して違わないなあ、とため息。そもそも、自立支援法の前に、もっとすることがあったでしょうに。

 

 

戦時下の国策遂行コピー 続きの続き

Photo_42 朝起きたら、ビワの幹に蝉が9匹も。1匹はクマゼミで、残りはアブラゼミです。一番上の端にいるアブラゼミにカマキリが忍び寄ります。



 獲物を狙う猫がお尻を左右に振るように、カマキリは体を横に揺すり……飛びかかりました……が、危ういところで蝉は飛び立ち、難を逃れます。



 
          後にはカマキPhoto_44リが残りました。



  今日は、戦時下の国策遂行コピー、太平洋での制空権が完全にアメリカに移り、悲壮感さえ漂うコピーから。


  一点の衣、一椀の粥
  総てが国力である時
  暖衣飽食は
  自らの国を引き裂いて着
  自らの国を引きちぎって喰ひ
  遂に船底まで剥ぎ取って
  諸共、海底に没入するの愚だ
         (43年1月13日号)



 これを読むと、何かおかしいな、と感じます。なにか、現実とすでに逆転しているからでしょうか。



 41年12月の開戦から3ヵ月ほどたつ42年2月には、すでに衣料品を手に入れるのには切符が必要になっていました。食料の配給制が始まるのも、そう遅い時期ではなかったはず(42年には主食の米等は、1日分2合3勺(345g)になっていて、やがて配給米の中に麦やサツマイモが米の代わりに加えられ、副食物までは配給制になっていき、遅配・欠配も多くなっていくわけです)。



 そうした国民生活の窮乏をみていて、「暖衣飽食」とはよくいえたものだとびっくりします。贅沢をするものは自らの国を食して諸共に沈没するものだ、という言葉を読むと、「痛みに耐えて改革を成し遂げなければならない」という首相の言葉を思い出しませんか。



 耐えてきたのに、まだまだ耐え足りない、というのは小泉改革と同じですね。



 折りしも竹中氏は訪米中の8月4日、ポスト小泉政権の政策運営について「改革は続くのか」「(引き続き)首相がリーダーシップを発揮するのか」などの質問が相次いで、「改革を続けないと日本経済は基本的には駄目になる」などと答えたといいます。



 要求の際限なさは、すでに戦時中と同じ。





 43年3月10日の陸軍記念日に、有名な「撃ちてし止まむ」の標語が発表されます。



 そして



  制服から作業衣へ
  諸君は日本の
  戦車を軍艦を飛行機を造る逞しい少年工になった
  諸君が得る収入は
  国家が支払うお金です
  良くないことに使っては
  君たちをゆがめ 國をむしばむ
  二重の罪悪です
              (4月14日号)



  わが蓄めしいささかの金
  けふも鋼鉄の艦となり
  南海の敵を撃つ
  わが積みしそこばくの金 
  けふも銀翼となり
  大東亜の空に飛び立つ
  撃ちてしやまむ
  この暮らしなおゆとりあり
  否、この暮らしゆとりなくとも
           (5月5日号)



 ふー、ここまでいうとは想像できませんでした。43年5月の言葉です……45年8月まで、2年以上もあるというのに。



「この暮らしなおゆとりあり」といったそばから「否、この暮らしゆとりなくとも」と否定しているのは、国民の窮乏をちゃんと知っているわけです。それでもですからね。



 いったい、日本はどうなってしまうの、というより、これ以上国家への奉仕を要求して、日本人の暮らしはどうなってしまうのかと、読むだけで不安になります。実際のむごさはどんなものだったでしょうか。



 少年工の賃金も、「良くないことに使っては、君たちをゆがめ 國をむしばむ」といってどこに使われたか!



 この43年の秋には軍需省が創設され、44年1月から軍需会社の指定を行い、さらには一般鉱工業生産を犠牲にしてでも、徹底的な航空機第一主義に集中せざるを得なくなるのです。そしてその航空機は何に使われたか!



 この方が「二重の罪悪」でしょう。









 

 



戦時下の国策遂行コピー 続き

 ミッドウェー海戦の惨敗の後は、ガダルカナルの撤退、ニューギニア、ポートモスレビー作戦失敗とつづき、42年6月10日号で「もつともつと、人が要るのだ」といわれたように、「人的資源」補充のために中学、高専、大学は卒業を半年繰り上げ、そこに航空少年兵募集の叫びが高鳴ります。



 42年8月5日号『写真週報』の「時の立て札」より



  地を蹴りて隼は空に征き
  遂に帰らず
  南溟の虚空高く
  雄魂は神と帰したり
  己の死灰の中から甦り飛び立つといふ
  不死鳥のやうに
  その英魂から生まれ羽ばたく幾万の
  護国の隼のあることを信じよう
  死せず 荒鷲死せず



 ここにいう「隼(はやぶさ)」とは、wikipediaによると、零戦についで2番目に多い生産数を誇る、太平洋戦争前半における主力戦闘機。



 この詩は、ベンガル湾で5月10日に戦死した加藤建夫飛行第64戦隊町のことを謳ったもので、何でもこの人は、海軍の「九軍神」に対抗すべく、陸軍で軍神に祭り上げられた人のようです。詳しいことはここにあります。



 「雄魂」「英魂」「神」「不死鳥」「荒鷲」……人の心情をかき立てるような「熱い」言葉が続きますね。なんだか、今でもこうした言葉に意を決してしまう人もいそうです。



 この「時の立て札」に「欲しがりません勝つまでは」の標語が登場したのは11月だったといいます。その頃の詩とでもいえそうなコピー。



  なかなかに君は頑健そうだな
  真珠湾に散った九軍神も
  かつては、君のやうな青年だった
  やれるさ
  君にだって
  軍艦旗が、君を招いて 潮風にはためいてゐるぞ
                      (11月4日号)



 大衆にアピールするのには、「軍神」も必要だったのでしょう。そんな、人々の崇敬の眼差しが注がれる軍神に、君だってなれるさ、とささやく。なんとも巧妙な。



 時々、上場前の株を買え、とかいろいろ儲けをさそう電話がかかってきます。今は電話機に着信拒否の機能がありますからそこへ登録すればいいだけの話しですが、以前はよく、そんなに儲かるのなら、うちなどに勧めずにご自分で買われるのが一番でしょう、などと夫が答えていたものです。



 ほんとうに、そんなにいいものなら、ご自分がまず率先して軍艦に乗ったらいいですよね。

 

                         

ホロコーストの闇

_149 _150_1 ラムズイアー。子羊の耳の意を持つこのハーブ、可愛らしいピンクの花が咲きますが、びっしりと産毛のような白い毛が生えた柔らかい葉っぱは、さわるとほんわり柔らかくて、癒されます。



 政府と政権与党の横暴に腹の立つあまり、とりあえず邸の麗子嬢とゆっくりお茶を飲む暇もゆとりもない方々は、是非身近に置くことをお薦め致します。



 先日から、東ヨーロッパの小さな町で起こったホロコーストを取材した本を読んでいます。かなりなボリュームで、原書ですから、少々時間がかかり、ブログの更新内容を考えるゆとりがありません。もちろん、麗子嬢やばあやとの楽しいお茶の時間は後まわし。



 とても重たい本です。(もちろん、重量のことではありません)。



 言葉をなくすとか胸が突かれるとかいう言葉だけでは、とても言い表せないほどの衝撃です。ホロコーストといえば、日本ではアンネの日記とかアウシュビッツを思い浮かべますが、息を潜めた隠れ家生活の日常や絶滅収容所での体験とは違う、ポーランドやウクライナ各地の町や村でおこった大小さまざまなユダヤ人虐殺の実態が、家族の歴史と共に描かれています。



 虐殺そのものも、あまりにすさまじく、当分の間私の頭から去りそうにもありませんが、その殺戮が、ドイツ・ゲシュタポのみならず、その協力者、昨日まで隣人として共に生活をしてきた人々の手によって行われたことに、また違った恐怖と衝撃を味わいます。



 日本でも、沖縄戦の最中、壕に逃げ込んだ若い母親が、泣いている赤ん坊の口を塞いで窒息死させた話を聞きますが、ちょうど同じようなことが、ゲシュタポがユダヤ人探索をするときにも出てきます。



 でもそれよりもおそろしかったのは、そうした探索の最中に、お産を迎えた妊婦の話でした。



 周囲にいる人の懇願空しく産気づいた女性が広場に引きずられていく。陣痛が始まると、そこにある大きなゴミ箱の上に引っ張り上げられ、お産の痛みに苦しむ姿が群衆にさらされる。それを見つめる人々は、冗談を言いあい、罵声を浴びせる。子供が生まれるや、赤ん坊は臍の緒のついたまま、すぐさま母親の腕からもぎとられ、群衆の中に投げ飛ばされる。人々は生まれたてのその赤ん坊を踏みつける……母親は血を垂らしながら、数時間その場に立ちつくす。そして駅へと引っ立てられていき、絶滅収容所行きの貨物列車に詰め込まれる……



 20世紀に入ってからも、フランスでは公開処刑が行われていたことを、カミュか誰かが書いていました。普通の市民が、今日はギロチンだ、という日、喜々として処刑が行われる広場に駆けつけるわけです。



 おまけに東ヨーロッパでは、20世紀になっても、ときどきユダヤ人の住まいが襲撃されるポグロムが起こっていました。社会不安のはけ口だったのでしょう。



 国家保安部長ラインハルト・ハイドリッヒという人物が、この東ヨーロッパのホロコーストの指揮を執ったのですが、実際に手を下したのは、ゲシュタポのみならずこうした普通の人々でした。もちろん、中には絶滅収容所行きトラック(ユダヤ人輸送には、列車だけでなく、家畜運搬用のトラックも使用されました)から逃げ出した人を救ったり、パルチザンになってユダヤ人と共に闘った人は、少数ですがおりました。



 でも、昨日まで、平和に暮らしていた隣人が、こうして牙をむくことがあるのは、旧ユーゴスラビアでのボスニア・ヘルツェゴビナの内戦でも顕著に見られたことでした。



(あああ、頭の中がいっぱいでうまくまとまりません。今日はここまで)





匕首(あいくち)伝説という麻薬

第一次世界大戦に敗れて自尊心をずたずたにされたドイツ国民の間でまことしやかに囁かれた神話、「匕首伝説Dolchstosslegende」。

第一次世界大戦は同盟国側を見るだけでも、ドイツのみならずオーストリア‐ハンガリー帝国、トルコ、ブルガリア等のそれぞれの国内外の事情が絡んで複雑な様相を呈しますが、ごく狭い範囲に限って簡単に流れを追ってみます。
 
  開戦当初、ドイツは西部戦線に兵力を集中しましたが、14年のマルヌの戦いで破竹の進撃が食い止められ、フランス軍との戦線全域にわたって泥沼の塹壕戦に 陥り、以後膠着状態が続きます。さらに17年の無制限潜水艦戦の実行でアメリカの参戦を呼び、停滞した西部戦線へのアメリカ軍の投入でドイツは完敗。18 年春からの大攻勢も失敗に帰し、夏には戦勝の望みも断たれてしまいます。

 大西洋は英仏艦隊に封鎖されましたから、ドイツは国民生活と軍需品の調達の双方で大きな打撃を被ります。15年からは食料の切符制度も始まり、総動員態勢下の窮乏生活に、国民の間では、次第に厭戦気分が広がっていきます。

  一方、ティルピッツ海相によって増強された海軍は、16年のユトランド海戦以来2年間閉じこめられて港外に出ることがなかったところに、18年10月29 日、イギリス海軍への自殺的な特攻作戦の出撃命令が司令部から出されます。ヴィルヘルムスハーフェン港にいたドイツ大洋艦隊の水兵たちはこれを拒絶して反 乱を起こしますが、11月3日には、有名なキール軍港の水兵・兵士によるデモが発生し、全国各地に波及していきます。

 ここから一気に大衆蜂起、軍隊の瓦解あるいは無抵抗、皇帝退位、帝政崩壊、ワイマール共和国誕生というように、ドイツ革命と言われる一連の動きが始まることになります。

 11 月9日、皇帝の自発的退位の知らせを待つ中で、正午頃、社会民主党のエーベルトは、「帝国憲法に従って」首相のマックス・フォン・バーデン公から宰相の地 位を引き継ぎます。午後2時、社会民主党幹部のシャイデマンは押し寄せてきた労働者と兵士から議事堂前の大衆に演説をするように求められ、しかもその時、 スパルタクス団のリープクネヒトが宮殿のバルコニーから「社会主義共和国」の宣言をしようとしているとの知らせを受け、慌てて独断で共和国宣言をしてしま います。

 ワイマール共和国の誕生です。(ちなみに、この71年後の1989年11月9日に、第二次世界大戦後の冷戦の象徴であるベルリンの壁が崩壊しま す。これは偶然の一致なのでしょうか?)

 革命後、ルーデンドルフをはじめとする旧将校たちは、ドイツが敗北したのは、軍隊が敵に敗 れたからではなく、帝国政府及び民間人が軍隊を支持せず、いわば匕首をもって背後から軍隊に切りつけたからである、と主張し、一般に流布していきます。ま たこれには、国内の社会主義者、共産主義者とそれに支持された政府が裏切り、「勝手に」降伏した、もしくは「背後からの一突き」を加えたことによりドイツ を敗北へと導いた、という解釈もありました。
 
 この匕首伝説については、1925年の「匕首事件」の訴訟の際に多くの関係者が証 人として喚問されています。その中で、革命直前の11月6日に、社会民主党幹部及び労働組合総委員長代表と会見した参謀本部次長グレーナーは、「革命のた めに努力していると思われるような言葉は誰からもひと言も発せられず、反対にいかにしたならば王制を維持しうるかということが話題になりました」と証言し ています。

 歴史の一断面を凸レンズで、それも歪んだ凸レンズで拡大したこのデマゴーグが、なぜ、かなりな知識人にまで簡単に受けいれられてしまったのでしょうか。

「匕首伝説」が生まれた時代の空気と現代日本の閉塞感にtoxandoriaさんが共通するものを見いだして、すでに昨年5月にご自身のブログで語られています。

以下
toxandoriaさんの言葉を、一部ですが引用します。

  戦後賠償問題を始めとする「ヴェルサイユ条約」の重荷がドイツ国民の上に圧し掛か駆り始めると、次第にドイツ国民の間に共産主義者に対する『匕首(あいく ち)伝説』(共産主義者の卑怯な背後からの匕首での一突きがドイツを不幸に陥れたというルサンチマン/一種の八つ当たりor人身御供を求める恨みの感 情?)と呼ばれた怨念と復讐の感情が広がります。特に、このルサンチマン(ressentiment)を強く意識したのが、時代の先行きを悲観した都市部 に住む中産市民層でした。慧眼にも、ここに目をつけたのがナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党首ヒトラーです。

 日本社会の ルサンチマンは、もはや相当に重態のようです。そして、このようなやり場がない怨念と暗い情念の渦の中にとり込まれた都市部の中産層や若者たちが、唯一、 希望を託せるのが、他でもないワンフレーズ・ポリティクス型の稀代のポピュリスト政治家たち、すなわち小泉純一郎、石原慎太郎、安部晋三なのです。そこで 象徴的な社会操作概念(メコネサンス)として登場するのが靖国神社参拝であり、愛国心であり、軍事国体論なのです。ルサンチマンへの反動として、これらは 都市部の中産層や若者たちの多くが受け入れ易い、未来への希望の代償となっているのです。かくして、日本の社会は、やり場がない怨念のルサンチマンに侵食 されながら、右傾化への道を直走っているのです。

 以上引用終わり

 ルサンチマンか! 「押しつけ憲法」神話も、やはりルサンチマンの充満している空気の中で熟成・拡散されたのでしょうか。ルサンチマンに処方された麻薬のように作用して、しばし現実の痛みを忘れさせてくれるのがこの神話ですから。


 旧憲法下で特権を享受してきた人たちは、現憲法の下で、さぞルサンチマンを抱え込んだことでしょうね。でも問題は、これまで現憲法下で保護されてきた人たちが、ここに来て、生きにくさを抱えてルサンチマンの心を募らせていくことです。日本国憲法によって自分が保護されてきたことに目を向けようとせずに、逆に、「押しつけ憲法」神話にのって、自分の頭で考えることを忘れてしまうことです。

 このルサンチマンの呪縛をいかにして解くのか、痛い目に遭わないと分からない、というのでは遅すぎますね。大きな痛い目ではなく、小さな痛い目を味わううちに気づいてと、祈るような気持です。